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東京地方裁判所 昭和62年(行ウ)134号 判決

原告

東京焼結金属株式会社

右代表者代表取締役

小野吉郎

右訴訟代理人弁護士

渡邉修

冨田武夫

被告

中央労働委員会

右代表者会長

石川吉右衛門

右指定代理人

北川俊夫

萩澤清彦

増井啓秀

中島芙美子

惠藤宣昭

被告補助参加人

小川邦夫

右訴訟代理人弁護士

石野隆春

山口秀資

永瀬精一

主文

一  被告が、原告を再審査申立人、被告補助参加人を再審査被申立人とする中労委昭和六〇年(不再)第五一号事件について、昭和六二年九月二日付けをもってした命令を取り消す。

二  訴訟費用は、補助参加によって生じたものは被告補助参加人の、その余は被告の各負担とする。

事実及び理由

第一請求

主文第一項と同旨。

第二事案の概要

一  争いのない事実

1  原告は、東京都豊島区に本社を置き、埼玉県川越市及び愛知県春日井市に工場を、東京営業部のもとに東京営業所、名古屋営業部のもとに名古屋営業所、大阪営業所及び名古屋営業所浜松出張所を有して、焼結粉末及び焼結金属製品等の製造・販売を営む株式会社であり、昭和五六年九月当時の従業員数は約三六〇名であった。

原告には、労働組合として、川越工場の従業員を主体に組織されている全国金属埼玉地方本部東京焼結金属支部(以下「組合」という。)のほか、春日井工場の従業員を主体に組織されている全国金属愛知地方本部東京焼結金属春日井支部(以下「春日井支部」という。)がある。

2  被告補助参加人小川邦夫(以下「小川」或いは「補助参加人」という。)は、昭和四三年三月、工業高校を卒業して原告に入社し、それ以来、川越工場の従業員として勤務してきた。

小川は、入社以来、組合に所属し、昭和四八年、四九年及び五〇年に実施された役員選挙で執行委員に、昭和五一年及び五二年に実施された役員選挙で書記長に、昭和五四年に実施された役員選挙で執行委員にそれぞれ当選し、組合役員を務めた。

3  原告は、小川を昭和五六年八月一八日付けで川越工場から静岡県浜松市所在の浜松出張所に配転し(以下「本件配転」という。)、更に、昭和五八年八月二五日付けで右浜松出張所から東京都豊島区所在の東京営業所に再配転した(以下「本件再配転」という。)。

4  小川は、埼玉県地方労働委員会(以下「埼労委」という。)に対し、本件配転が不当労働行為に該当するとして、これからの救済を申し立て、次いで、本件再配転について同旨の申立を追加した(埼労委昭和五六年(不)第六号事件)ところ、埼労委は、本件配転及び本件再配転がいずれも労働組合法七条一号所定の不当労働行為に該当すると認定・判断し、昭和六〇年九月九日付けをもって、別紙一(略)記載の主文のとおり、救済命令を発した。

5  原告は、右埼労委の救済命令を不服として、被告に対し、再審査を申し立てた(中労委昭和六〇年(不再)第五一号事件)ところ、被告は、本件配転及び本件再配転がいずれも労働組合法七条一号所定の不当労働行為に該当するとした埼労委の認定・判断を支持し、昭和六二年九月二日付けをもって、別紙二(略)記載のとおり、原告の再審査申立を棄却する命令(以下「本件命令」という。)を発した。

二  争点

本件の争点は、本件配転及び本件再配転がいずれも労働組合法七条一号所定の不当労働行為に該当するとした被告の認定・判断が適法といえるか否かである。

(被告の主張)

1 本件配転の不当労働行為該当性

(一) 本件配転についてみるに、原告が、その策定に係る長期計画に基づく浜松出張所の販売体制強化のため、営業担当者一名の増員が必要であると判断したことには理由があり、また、同出張所への配転対象者を選定する基準の一つとして、ヒートパイプに関する知識・経験を求めたことも、それ自体が不合理であるとはいえない。

しかしながら、〈1〉昭和五六年一月一九日の原告役員会で承認された同年度売上計画では、ヒートパイプの売上計画額が八〇〇〇万円となっているのに、同年三月の会社方針ではそれが六五〇〇万円と一五〇〇万円減少していること、昭和五六年度会社方針には、ヒートパイプの拡販に関する具体的な記述が存在しないこと、昭和五五年一二月当初計画では、浜松出張所における昭和五七年度のヒートパイプ売上目標が一億二三〇〇万円とされていたのが、昭和五六年八月には売上見込みが七二〇〇万円とされ、しかも、昭和五七年度の売上実績は一一〇〇万円と昭和五六年度の五八〇〇万円に比べて大幅に減少していること、昭和五七年度会社方針には、ヒートパイプの売上目標額は掲げられておらず、その理由の記載もないこと、などに鑑みると、本件配転当時、原告がヒートパイプの拡販にさまで力を入れていたとは認め難い、〈2〉また、焼結品が売上の九割前後を占める浜松出張所の実態や、前記増員に関する稟議書作成の経緯からみて、ヒートパイプに関する知識・経験を人選の最重点とすることの合理性をにわかに首肯することができない、〈3〉原告は、浜松出張所における小川の後任として、本件配転の際に候補が挙がっていた青山恭樹(以下「青山」という。)を選任したことに関し、このことは小川を選任したことの相当性を裏付けるものであるというが、青山は五名の候補者の中でヒートパイプに関する経験が一番短い、以上の諸点に照らすと、本件配転当時、原告が小川を最適任であるとして人選したことの合理性について疑問なしとしない。

(二) そして、〈1〉原告は、昭和四七年にトヨタ自動車工業株式会社(以下「トヨタ自工」という。)の労組委員長を務めたことのある岩満達巳(以下「岩満」という。)を会社に迎えて以降、各種合理化を推進し、その一方で、小川らが主導権を持っていた組合の執行部(以下、小川らが主導権を持っていた執行部を「旧執行部」といい、昭和五三年八月の役員選挙で主導権を失った後の小川など旧執行部の役員経験者を中心としこれに同調するグループを「旧執行部派」という。)を闘争至上主義であるとし、階級的労働運動として排除すべきであるとして、機会あるごとに組合に対する批判、従業員に対する訴えなどを行い、これに対し、旧執行部は、一連の合理化案に対してストライキを含む闘争を展開し、裁判所への提訴、埼労委に対する二回の救済申立をするなどして反対してきた、〈2〉小川を中心とする旧執行部派は、昭和五三年八月の役員選挙で組合の主導権を失ったが、その後も、組合内部で一定の影響力を保持して活発な組合活動を展開し、ラップ時間の解消を内容とするプレス部門の二交替制勤務の改定提案についても反対するなど、活発な活動を展開していた、〈3〉このため、原告が、長期計画の達成のために必要であるとして提案した完全二交替制勤務の実現を妨げるものとして、旧執行部派に対する敵対意識を一層強くしたであろうことは推認するに難くなく、また、原告が、「こぶし」の編集代表を務め、役員選挙に毎回立候補するなど旧執行部派の中心となって活動している小川に着目し、嫌悪していたであろうことは容易に推測し得る、〈4〉そうすると、小川を人選したことの合理性に疑問を表せざるを得ないことからみて、本件配転は、小川のヒートパイプの経験が長いことに藉口して、あえて小川を人選して旧執行部派の中心的存在である同人を川越工場から排除し、その影響力を削ぐために行われたものと判断せざるを得ない。

(三) したがって、本件配転は、労働組合法七条一号所定の不当労働行為に該当するというべきである。

2 本件再配転の不当労働行為該当性

(一) 東京営業所の増員の必要性についてみるに、〈1〉昭和五八年以降、ヒートパイプを特品扱いとし、特機部門の拡大に重点を置くとする見直し後の長期計画からすれば、ヒートパイプは重点販売計画製品とは認め難くなっており、東京営業所においては、ヒートパイプの具体的販売目標も存在せず、その売上実績も、昭和五八年度は一〇万円、五九年度、六〇年度はいずれも零であること、〈2〉東京営業所の営業担当者の人員が、昭和五八年には一名増員されて五名、五九年には二名減の三名、六〇年には新規採用者一名を含む四名と毎年変動していること、〈3〉森田東京営業部長が、小川に対し、すぐに売上に寄与するような仕事ではないので気長な気持ちで業務に当たって欲しい旨述べていることからすれば、東京営業所に増員の必要性があったとは認め難い。

(二) また、川越工場からの増員要請は係長職一名のみであったとしても、そのことから直ちに、小川を川越工場に配属すべき職場がないことになるとはいえず、かえって、本件再配転当時、東京営業所の営業担当者は、焼結品の納期管理のため、川越工場に赴くことが多くなり、本来の営業活動に充分な力を注ぐことができない実情であったことに徴せば、川越工場に小川を配属すべき職場がなかったとは認め難い。

(三) 東京営業所が、組合活動の中心である川越工場から鉄道で一時間程度離れていることから、小川が従前と同様に積極的な組合活動を行おうとするには、種々の困難を伴うであろうことは想像するに難くなく、本件再配転により組合活動上の支障が生じたことは否定し難い。

(四) そして、本件配転が旧執行部派の中心的存在である小川を川越工場から排除するために行ったものであること、並びに、東京営業所に増員の必要性があったとは認め難いこと、川越工場に小川を配属すべき職場がなかったとは認め難いことからすれば、本件再配転は、二年後に自宅から通勤できる事業所に配属するとの本件配転時における小川との約束の履行として行われたものとはいえ、小川の組合活動を嫌悪していた原告が、旧執行部派が従前と同様に組合に対する影響力を保っていることから、小川を川越工場へ復帰させれば、再び旧執行部派の中心として活発な組合活動を行うであろうことを恐れて、川越工場から小川を排除すべきものとして行ったと認めるのが相当である。

(五) したがって、本件再配転は労働組合法七条一号所定の不当労働行為に該当するというべきである。

(原告の主張)

1 本件配転の正当性

(一) 浜松出張所における増員の必要性

浜松出張所には、本件配転当時、長期計画に基づく販売体制強化のため、営業担当者一名を増員する必要があったことは、被告も認めるところである。

(二) 小川を人選したことの合理性

被告は、〈1〉原告がヒートパイプの拡販にそれほど力を入れていたとは認め難いこと、〈2〉焼結品が売上の九割前後を占める浜松出張所の実態及び右増員に関する稟議書作成の経緯から、ヒートパイプに関する知識・経験を人選の最重点とすることは合理的とはいえないこと、〈3〉小川の後任として人選された青山はヒートパイプに関する経験が最も少ないこと、の三点を挙げて、本件配転当時、原告が小川を最適任であるとして人選したことの合理性について疑問がある旨主張する。この三点がどのような論理的関係に立つのか必ずしも判然としないが、その趣旨を善解すると、要するに、小川のヒートパイプに関する知識・経験が他の候補者より勝ることを人選の「最重点」とすることは正しくないというにあると解される。

しかしながら、被告の右主張は、以下に詳述するとおり、根本的に誤っており、原告が小川を人選したことには充分な合理性が認められるというべきである。

(1) そもそも、原告は、ヒートパイプについての知識・経験を「最重点」として小川を人選したことはない。原告は、小川が焼結品に関して九年余りの経験を有し、また、ヒートパイプに関しては約五年間の経験を有していることを総合勘案して、候補に挙がった他の四名との比較のうえで小川を最適任と判断したのである。被告は、この明確な事実を無視し、原告がヒートパイプについての知識・経験を「最重点」として人選したという根拠のない立論をしているのであって、これが失当であることは明らかである。

(2) 被告は、原告がヒートパイプの拡販にそれほど力を入れていたとは認め難い旨主張し、その根拠として、〈1〉昭和五六年一月一九日の原告役員会で承認された同年度売上計画では、ヒートパイプの売上計画額が八〇〇〇万円となっているのに、同年三月の会社方針ではそれが六五〇〇万円と一五〇〇万円減少している、〈2〉昭和五六年度会社方針には、ヒートパイプの拡販に関する具体的な記述が存在しない、〈3〉昭和五五年一二月の当初計画では、浜松出張所における昭和五七年度のヒートパイプ売上目標が一億二三〇〇万円とされていたのが、昭和五六年八月には売上見込みが七二〇〇万円とされ、しかも、昭和五七年度の売上実績は一一〇〇万円と昭和五六年度の五八〇〇万円に比べて大幅に減少している、〈4〉昭和五七年度会社方針には、ヒートパイプの売上目標は掲げられておらず、その理由の記載もない、などの諸点を挙げる。

しかしながら、被告の右主張は、次のとおり、失当である。

〈1〉 昭和五六年一月一九日に承認された長期計画中の各年度の売上計画は、当然のことながら、その時点までの売上実績見込みをベースに策定されたものであり、昭和五六年三月に策定された同年度の会社方針とは期間的に約二か月のタイムラグが存する。そして、昭和五六年度会社方針を策定する時点において、昭和五五年度の売上実績が長期計画において見込んだ数字に達しない見通しだったので、長期計画中の昭和五六年度売上計画六五億円という数字に見直しを加えて下方修正し、四億円減らして六一億円としたのである。したがって、修正の対象は全製品にわたっており、焼結品は五三億五〇〇〇万円から五一億七〇〇〇万円に、油圧ポンプは九億二〇〇〇万円から七億八五〇〇万円に、ヒートパイプは八〇〇〇万円から六五〇〇万円に、特品は一億五〇〇〇万円から八〇〇〇万円に、それぞれ減額している。このように、昭和五六年度は、会社方針において全製品の売上目標を長期計画の数字より減額修正したのであって、ひとりヒートパイプのみを減額修正したものではない。

しかるに、被告は、ヒートパイプの減額修正のみに目を奪われているのであって、これが誤りであることは明らかである。

〈2〉 昭和五六年度会社方針には、六五〇〇万円(継続品五四〇〇万円、新製品一一〇〇万円)というヒートパイプの具体的な売上目標及び特機品全体で対前年度比一三三パーセントの売上となることが記載されている。この数字をみれば、原告が、他の製品と同様に、ヒートパイプについても販売を拡張することを期していたことが一目明瞭である。また、右会社方針には、特機関係の重点施策として、販売、技術、生産及び品質の各項目にわたり具体的な方策が記載されており、これは油圧ポンプに固有の事項を除きヒートパイプにも当然に当てはまるものである。

被告は、一体なにを根拠にヒートパイプの拡販に関する具体的記述がないとするのか、全く理解に苦しむところである。もし、「ヒートパイプの主要取引先との拡販に努める。」というような記載がないことを問題にしているのであれば論外である。このような当たり前のことをわざわざ記載する経営者はどこにもいないからである。

〈3〉 浜松出張所における昭和五七年度のヒートパイプの売上目標が減額修正されているが、同年度の売上計画については、前述した昭和五六年度と同様に、原告は全製品について売上目標を減額修正しているのである。すなわち、原告の長期計画において、昭和五七年度の売上目標は全体で七七億円、製品別では焼結品六〇億円、特機一三億円(油圧ポンプ一一億五〇〇〇万円、ヒートパイプ一億五〇〇〇万円)、特品四億円(焼結ベント一億五〇〇〇万円、フェルトペン二億五〇〇〇万円)であったが、残念ながら、昭和五七年度の会社方針では、全体で六九億〇五〇〇万円、製品別では、焼結品五七億八五〇〇万円、特機一〇億円、特品一億二〇〇〇万円と、いずれも売上目標の減額修正を余儀なくされたのである。このように、売上目標の減額修正は、ひとり浜松出張所におけるヒートパイプだけでなく、全社かつ全製品に共通する問題である。被告がヒートパイプの減額修正のみを捉えて論じるのは見当外れである。

次に、浜松出張所におけるヒートパイプの販売実績は、原告の期待に反して昭和五六年度以降大幅に減少しているが、これもひとりヒートパイプだけの問題ではなく、販売実績が計画を下回ったのは全社的かつ全製品にわたる事情なのである。ところで、浜松出張所におけるヒートパイプの販売に係る固有の事情をみるに、主要取引先は鈴木自動車工業株式会社(以下「鈴木自工」という。)であり、同社に対しては昭和五五年一月からファミリーバイク「スワニィー」向けにヒートパイプの量産納入を開始した。ファミリーバイクはほぼ二年ごとにモデルチェンジが行われており、鈴木自工でも「スワニィー」の次期機種として「ジェンマ」というモデルの開発を始めた。原告は、「ジェンマ」にもヒートパイプが採用されるよう努力したが、「ジェンマ」はエンジンとキャブレターが近接している構造のため、結局、廉価な銅棒が採用されて、ヒートパイプは採用されず、そのため、浜松出張所では昭和五六年から昭和五七年にかけてヒートパイプの売上が大幅に減少することになったのである。また、ヒートパイプ販売の主要な役割を占めていた浜松出張所がこのような状況となったため、昭和五七年度会社方針では、特機の内数としてヒートパイプの売上目標を特に掲記することはしなかったのである。

しかし、この間も、原告は、ヒートパイプの拡販努力を放棄したわけではなく、浜松出張所では、業績を回復するための営業活動を活発に行い、現に「ジェンマ」の次のモデルである「ランディ」ではヒートパイプが採用され、「ランディ」向けの量産納入に成功しているのである。また、技術部では、昭和五六年以降も一貫してヒートパイプの研究・開発作業を続けていた。このように、浜松出張所においては、昭和五六年以降、売上目標の減額修正を余儀なくされるとか、売上実績が大幅に減少するという状況が生じたが、その間も、ヒートパイプの拡販活動を一貫して続行し、技術部でも右拡販活動をバックアップしてきたのである。

しかるに、被告は、売上目標の減額修正や実績の大幅減少という現象面のみに目を奪われ、右のような事情を無視しているのであって、これが誤りであることは明らかである。

(3) 被告は、焼結品が売上の九割前後を占める浜松出張所の実態や、増員に関する稟議書作成の経緯から、ヒートパイプに関する知識・経験を人選の最重点とするこの合理性についてにわかに首肯することができない旨主張する。

しかしながら、被告の右主張は、次のとおり、失当である。

〈1〉 従前、浜松出張所では、春日井工場の焼結製造部門出身の小口所長が一人で営業を担当しており、同所長は、焼結品の営業のベテランではあるが、ヒートパイプについての知識・経験がないため、ヒートパイプの営業については、必要の都度、川越工場の技術担当者の応援を得て対処せざるを得ない状況にあった。加えて、ヒートパイプの販売に関し、浜松出張所は昭和五五年度三七〇〇万円、昭和五六年度五八〇〇万円の売上があり、これはヒートパイプの全社売上の八割以上を占めており、今後も販売を拡大する計画であった。

そこで、原告は、人選基準として、ヒートパイプについては、技術部門からの応援なしに得意先と技術的な折衝を行い営業活動をなし得る程度の知識・経験を有することを条件としたが、他方、焼結品については、ベテランの小口所長を補佐して営業活動をなし得る程度で良いとしたのである。このように、人選基準の策定に当たり、ヒートパイプと焼結品の知識・経験に軽重をつけたのは、浜松出張所の業務の実態及び人員構成を考慮したからにほかならず、その合理性は明らかである。焼結品の売上が九割前後を占めているとしても、残りの一割前後を占め数千万円の売上実績があるヒートパイプの拡販を無視することができないのはいうまでもなく、ヒートパイプの知識・経験のない小口所長に代って、単独でヒートパイプの営業活動をなし得る従業員を配置することが不合理である筈がない。

〈2〉 稟議書作成の経緯については、次のとおりである。すなわち、矢頭名古屋営業部長代理は、昭和五六年一月一四日に本社で開催された営業部会に出席した際、浜松出張所の営業車が更新時期に来ていたことから、同日付けで営業車更新の稟議書(〈証拠略〉)を作成して上申したところ、この稟議は同月二三日付けで承認され、同月末には浜松出張所に新車が配備された。ところで、矢頭部長代理は、右稟議書を作成する際、件名欄の金額を書き込む欄に本来「1,064千円」と書き込むべきところ、誤って「10,64千円」と記入して稟議書用紙を一枚書き損じてしまい別の用紙に書き直したが、右営業部会が開催された時点では、浜松出張所の一名増員がまだ正式決定されておらず増員を求める稟議書の提出を考えていたことから、右営業部会に出席していた浜松出張所の小口所長に対し、右書き損じた稟議書用紙を手渡して増員要請の稟議書の下書を起案するよう指示した。小口所長は、同月下旬、右用紙に稟議書の下書を起案して矢頭部長代理に提出した。右用紙(〈証拠略〉)の起案要旨欄から意見欄にかけて記入してあるが、小口所長の下書部分である。矢頭部長代理は、これを一応参考にしながら、同月下旬から翌二月冒頭にかけて、増員要請の稟議書を作成し、発行日付けとして本社に提出する予定の昭和五六年二月六日を記入した。そして、矢頭部長代理は、右稟議書を作成した直後、小口所長に会い、稟議書の内容で小口所長の下書と異なる部分についてその趣旨を説明すると共に、その写し(〈証拠略〉)を同所長に手渡した。ところが、本社では一月末に浜松出張所の増員を正式に決定し、稟議書を提出する直前の二月五日頃、矢頭部長代理にその旨連絡があったことから、結局、右矢頭部長代理作成の稟議書は本社に提出されなかった。右稟議書に本社関係者の決裁印がないのは、このような事情による。

次に、稟議書の内容についてみるに、小口所長が起案した稟議書の下書では、焼結品の販売計画のみを掲げ(ただし、単位の取違え、数字の間違いが存する。)、補充すべき人材として、工業高校卒業以上で、できれば春日井工場の現役が望ましい旨の記載があるのに対し、矢頭部長代理が作成した稟議書では、浜松出張所における現状として、売上の増加に伴い納期管理、外注管理が主になっていること、今後、浜松出張所の拡販計画を達成するためには、得意先の技術・設計部門との折衝を増やし、その需要を先取りしていくことが必要であり、そのためには男子一名の増員が必要であると指摘し、小口所長起案の下書にある補充すべき人材として工業高校卒業以上で、できれば春日井工場の現役が望ましい旨の記載は削除されている。これは、現地の担当者である小口所長が、浜松出張所で扱っている製品は春日井工場の焼結品が多いという単純な考えから、春日井工場の現役から補充するのが最適だと記載したのに対し、小口所長の上司で浜松地区の営業の責任者であると共に中京、関西地区の営業活動を統轄している矢頭部長代理は、浜松出張所が原告におけるヒートパイプの売上額の八割以上を占めヒートパイプの営業活動の拠点であることを考慮し、また、小口所長にヒートパイプの知識・経験がないことを踏まえ、焼結品と併せてヒートパイプについても知識・経験を有する従業員の補充が必要であると判断して、稟議書を作成したからである。

被告は、小口所長が稟議書の下書に春日井工場の現役が最適と記載したことや、小口所長が起案した稟議書の下書や矢頭部長代理の作成した稟議書にはヒートパイプの拡販に触れられていないことから、原告がヒートパイプの知識・経験に重点をおいた人選をするべきでないというもののようであるが、上司から否定された現地所長の一意見に拘泥するものであって、失当である。

(4) 原告は、本件再配転の際の小川の後任として、青山を浜松出張所に配転した。青山は、約一年間ヒートパイプの基礎研究に従事し、また、焼結品に関しては七年以上の経験を有しており、本件配転時の人選の際にも候補者の一人として名前の挙がった者である。本件配転時の人選の際に候補に挙がった五名のうち、既に浜松出張所に転勤した小川を除けば、ヒートパイプと焼結品の両方に一定程度の知識・経験を有するのは池川と青山の二名であることから、原告は、小川の後任として池川、青山の両名を比較検討したうえ、そのときの業務の都合等の事情を考慮して青山を浜松出張所に配転することとしたのである。

被告は、青山はヒートパイプの経験年数が短いというが、前述したように、原告は、ヒートパイプの経験年数だけを基準に浜松出張所への補充人員を決定したものではないのであって、各候補者の焼結品及びヒートパイプに関する経験、担当業務の内容等を総合勘案して人選したのである。小川の人選との関係で重要なのは、本件配転時にも候補者として名前の挙がった従業員の中から本件再配転後の小川の後任が人選されたという事実であり、これに裏打ちされた原告人事の一貫性である。被告は、このような本質的な点を看過している。

(5) 以上、詳述したとおり、原告が小川を人選したことには充分な合理性が認められるというべきである。

(三) 以上のとおりであって、本件配転当時、浜松出張所には、販売体制強化のため営業担当者一名を増員する必要性があり(この点は被告も認めるところである。)、かつ、配転対象者として小川を人選したことには充分な合理性が認められるから、小川を浜松出張所に配転した本件配転は、業務上の必要性を優に肯定し得るものであって、不当労働行為を構成する謂れはなく、本件配転が労働組合法七条一号所定の不当労働行為に該当するとした被告の認定・判断は違法である。

2 本件再配転の正当性

(一) 東京営業所における増員の必要性

被告は、〈1〉昭和五八年以降における原告の長期計画によれば、ヒートパイプは重点販売計画製品とは認め難くなっており、東京営業所においては、ヒートパイプの具体的販売目標も存しないこと、〈2〉東京営業所の営業担当者の人員が毎年変動していること、〈3〉森田東京営業部長が小川に対していったという発言内容を挙げて、東京営業所に増員の必要性があったとは認め難い旨主張する。

しかしながら、被告の右主張は、以下に詳述するとおり、根本的に誤っており、本件再配転当時、東京営業所には増員の必要性があったというべきである。

(1) 東京営業所の増員の理由について

東京営業所における増員は、焼結品、焼結ベントの売上計画を達成し、併せて新たに担当することになったヒートパイプの拡販のための基礎調査という東京営業所全体の営業活動強化のためであり、単にヒートパイプだけの問題ではない。東京営業所では、ヒートパイプが試作納入の段階に留っていたため、原告は、ヒートパイプを重点販売計画製品にしたことはなく、ヒートパイプの具体的な販売目標額も設定していないのである。

そして、東京営業所に赴任後の小川は、焼結ベントとヒートパイプ全般を担当し、焼結ベントについては具体的な売上目標額を設定して拡販に務め、ヒートパイプについては売上計画を設定せず拡販の基礎固めのための調査活動を行ったのである。

被告は、東京営業所において増員を必要とする理由を殊更にヒートパイプに矮小化して論じているのであって、失当というほかはない。

(2) 東京営業所における営業担当者数の変動について

〈1〉 昭和五八年から六〇年までの東京営業所に所属する営業担当者の人数の推移は、次のとおりである。すなわち、五八年八月時点で、男子五名(小松原、山根、三石、鈴木、小川)、女子一名、ほかに下部組織の北関東出張所に男子一名(水野)、五九年八月時点で、男子三名(山根、三石、小川)、女子一名、ほかに北関東出張所に男子一名(峰岸)、六〇年五月時点で、男子四名(山根、三石、伊藤、小川)、女子一名、ほかに北関東出張所に男子一名(峰岸)である。

〈2〉 昭和五八年八月、小川を配属して営業担当者を一名増員したのは、前述のとおり、焼結品、焼結ベントの売上計画の達成及びヒートパイプの拡販のための基礎調査という東京営業所全体の営業活動を強化するためである。

〈3〉 昭和五九年八月、小松原と鈴木の両名が東京営業所から川越工場に転出した。この異動で、東京営業所は営業担当者が二名減員となったことから、従前の業務分担を、次のとおり、大幅に変更した。

まず、小松原が担当していた主力得意先を全て北関東出張所の扱いに変更した。同出張所は取引額が減少傾向にあり、従前月商二〇〇〇万円程度であったものが、昭和五九年八月当時には月商一〇〇〇万円程度にまで減少し、更に引き続き減少することが避け難い見通しであった。そのため、同出張所の廃止も検討されたのであるが、取引額が減少しているとはいえ、創業当時からの古い取引先も多い同出張所を廃止することは取引の信義上好ましくないと判断され、結局、従前は小松原が担当していた主力得意先を全て北関東出張所の扱いに変更して同出張所を存続させることとなったのである。

次に、ペアで営業活動を行っていた山根・三石の両名を独立させて単独で営業活動を行わせると共に、翌年五月に新人一人を配属して対処することとし、新人が配属されるまでのつなぎとして、本来、特定の取引先を担当しない佐藤東京営業所長が暫定的に取引先を担当することになった。そして、山根・三石の両名のペアと鈴木が担当していた取引先を改めて二分して山根と三石がそれぞれ担当し、小松原が担当していた業務のうち北関東出張所に移管しなかった残りの約二割相当の分を佐藤東京営業所長が担当することとなった。なお、山根は、昭和五八年八月の異動で川越工場の製品係長から東京営業所配属となった者で、営業は初めての経験だったことから、三石とペアで営業活動に当たっていたが、一年経過した昭和五九年八月に一本立ちすることとなったものである。

〈4〉 昭和六〇年五月、新規採用の伊藤が東京営業所に配属された。

そこで、佐藤東京営業所長は、右取引先の担当から外れ、東京営業所では、山根、三石、伊藤、小川の四名で営業活動を行うこととなった。

〈5〉 このように、昭和五九年八月に東京営業所は二名減員となったが、ほぼ一名分の業務は北関東出張所に移管しており、その残り他の一名分については、ペアを解消して一本立ちした三石・山根が分担すると共に、佐藤東京営業所長も得意先を分担し、昭和六〇年五月には新人一名を投入して営業員四名の体制となっているのであって、昭和六〇年五月以降、昭和五八年九月当時の五名体制に比べて一名少ない体制となっているが、それはほぼ一名分の仕事量が北関東出張所に移管されたことによるもので、北関東出張所を含む東京営業所全体の業務量が減少したわけではないのである。

〈6〉 以上の次第で、東京営業所において、昭和五八年八月に小川を配属して営業担当者一名を増員したことと、その一年後の昭和五九年八月に営業担当者二名を減員したこととはなんら矛盾するものではなく、この点に関する被告の主張は誤りである。

(3) 森田東京営業部長の発言

被告は、森田東京営業部長が、小川に対し、すぐに売上に寄与するような仕事でないので気長な気持で業務に当たって欲しい旨述べた旨主張しているが、誤りである。

森田東京営業部長は、小川の分担について、東京営業所における焼結ベント全般とヒートパイプの営業を担当して貰う旨話をし、更に、ヒートパイプの営業に関して、東京地区においては、一〇社ほど特機部から引き続いで今日まできたけれども、充分な営業活動がされていないので、浜松での小川のキャリアを生かして、それらの得意先をもう一度洗い直し、また、新たな得意先を開拓するため頑張って貰いたい旨話をしたのである。東京営業所ではヒートパイプについて未だ実績といえるほどの売上がないため、森田東京営業部長は、今後の小川の営業活動に期待する趣旨で右の発言をしたのであって、至極当然の発言である。

(二) 川越工場に増員の必要性がなかったことについて

被告は、東京営業所の営業担当者が焼結品の納期管理のため川越工場に赴くことが多いというのであるから、小川を川越工場に配属すべき職場がないことにはならない旨主張している。

しかしながら、営業担当者が川越工場に赴くのは、同工場の業務に従事するためではなく、得意先に対する製品の納期管理の一環として、同工場の生産管理課と生産する製品の調整について打合せをするためである。このような納期管理業務のため、本来の営業活動に充分な力を注ぐことができない状況にあったからこそ、営業部門を増員して営業体制を強化しようとしたのである。そして、本件再配転当時、川越工場で増員が予定されたのは特機部の係長職一名だけであり、他に増員すべき職場は存しなかった。

(三) 以上のとおり、本件再配転当時、東京営業所には増員の必要性が認められたのに対して、川越工場には増員の必要性がなかったのである。そして、二年後に自宅通勤の可能な事業所に戻すという本件配転の際の小川との約束を履行するためには、小川を東京営業所か川越工場のいずれかに配転する以外になかったのであるから、小川を東京営業所に配転した本件再配転は、業務上の必要性を優に肯定し得るものであって、不当労働行為を構成する謂れはなく、本件再配転が労働組合法七条一号所定の不当労働行為に該当するとした被告の認定・判断は違法である。

3 本件配転及び本件再配転が小川の組合活動を理由とする不当労働行為であるとすることへの反論

被告は、本件配転は、旧執行部派に敵対意識を有していた原告が、その中心的存在である小川を川越工場から排除し、その影響力を削ぐために行ったものであり、本件再配転は、小川の組合活動を嫌悪していた原告が、旧執行部派が従前と同様に組合に対する影響力を保っていることから、小川を川越工場へ復帰させれば、再びその中心として活発な組合活動を行うであろうことを恐れて、小川を川越工場から排除すべきものとして行ったもので、いずれも不当労働行為に該当すると主張する。

(一) しかし、旧執行部派なるものの人的範囲、具体的な組織及びそこでの小川の役割も不明であるが、それはさておくとして、昭和五三年以前に組合役員を経験したことのある者が旧執行部派に属するとすると、昭和五〇年から五二年にかけて組合役員を経験した者は合計一〇名に達する。そのうちで昭和五〇年代に転勤の対象となったのは、小川の一人のみで、他の者は、全て川越工場内に配置され、小川の転勤後も依然として組合役員への立候補を続け、従前どおりの活動を行い、しかも、一貫して四割前後の得票率を維持している。小川に対する本件配転及び本件再配転が旧執行部派の活動に支障を与えたことは考えられない。

(二) また、原告は、小川が旧執行部派の中心的活動家或いは中心的存在であるとの認識をもったことはないし、小川自身もそのような主張をしていない。昭和四五年以後の旧執行部の役員構成をみると、その中心的存在ないし中心的活動家は、小川ではなく、八期連続して委員長を努めた鶴見博(以下「鶴見」という。)であると考えるのが常識に適う。鶴見は、昭和四五年以前にも副委員長と書記長を各二期務めている。小川は、昭和四八年から五〇年にかけて執行委員、昭和五一年、五二年に書記長を務めたものの、組合を代表する立場に立ったことは一度もなく、精々、鶴見を中心に活動していたその他役員の一人に過ぎない。小川一人によって鶴見執行部が運営されていたという事実はないし、昭和五五年に書記長に立候補して落選してからは、一組合員に過ぎず、表立った活動はしていない。原告としても、小川はかつて組合活動家の一人であったという程度の受け止め方をしていたに留まり、原告と小川との間に対立関係があったこともない。

(三) 小川が浜松出張所に転勤することによって同人の組合活動に一定の制約ないし支障が生ずることは、事実であろうが、それは誰が転勤しても同じであって、小川に特有の問題ではない。そのようなことを使用者が一々配慮する必要はないし、組合活動家であるからといって人事異動において特別扱いする理由はない。また、東京営業所にいると、川越工場にいるような組合活動ができないとしても、それは東京営業所に所属する従業員に共通のことであって、小川一人に限ったことではない。原告としては、小川に対して川越工場での組合活動を保障すべき義務はないし、組合三役や執行委員に当選した場合を仮定したうえで支障の有無を議論するのは、方法論として誤りである。

(四) 被告は、鶴見が組合の委員長をしていた昭和五三年以前の労使関係を取り上げて、原告の姿勢を問題にするが、労使間の協議の進展具合いかんに拘らず、予め設定した闘争スケジュールに基づきありとあらゆる争議行為を反復、展開するという当時の組合の闘争方針やその実態を考慮しないものであって、そこでの原告の対応をもって不当労働行為意思の徴憑とするのは誤りである。また、昭和五三年以前の鶴見執行部当時の労使関係は、あくまで原告と組合という組織間の関係であって、そこに対立関係があったとしても、特定の組合員との個別的な関係ではなく、それをもって直ちに、原告と小川との対立関係と同視するのは誤りである。

(補助参加人の主張)

1 本件配転及び本件再配転の不当労働行為性

(一) 本件配転及び本件再配転の本質

本件配転及び本件再配転は、いずれも、組合員の九〇パーセント以上が在籍し、小川らが主導権をもっていた旧執行部が依然として一定の影響力を有している川越工場から、小川を排除することを目的とした不当労働行為である。

(二) 原告の旧執行部及びその後身である旧執行部派に対する激しい敵意と露骨な嫌悪の情

(1) 原告は、昭和四七年、トヨタ大争議における闘争委員長、「全自動車」労組の中央執行委員長などの経験を有する岩満を役員に迎えて以来、事あるごとに旧執行部を攻撃し、その結果として、昭和五三年八月の組合役員選挙で労使協調派執行部を成立させるのに成功した。しかしながら、旧執行部派は、その後も、組合役員選挙で四〇パーセント前後の得票を得るなどその影響力が大きかったことから、原告は、引き続く旧執行部派攻撃の一環として、本件配転及び本件再配転を断行したのである。

(2) 原告が、合理化、労働強化に反対して果敢に闘ってきた旧執行部を嫌悪し、これに敵意を抱いてきたことを示す事実は、無数にあるが、以下に象徴的なものを示す。

〈1〉 原告は、昭和四八年四月、旧執行部を闘争至上主義と判断したうえ、組合幹部の態度は原告を破滅に追い込む、組合員の生活確保を唱えながら、その実は組合員の生活の糧を奪っている旨の「全従業員に訴える」と題する文書を全従業員に配付し、公然と露骨な旧執行部批判、支配介入を行った。

〈2〉 右のほか、原告は、次のとおり、機会あるごとに、労使が協調すべき旨を従業員に直接訴え、労使協調組合の変質化への策動を強めていった。〈1〉合理化アレルギーではなく、合理化自体を自らの問題として認識し、原告と共に協力していく態度でない限り、原告も労働組合もこれからの困難な状況は乗り切れない、〈2〉経済情勢は、我々が過去の甘い労使関係の見直し、つまり今日の実態に即した安定したストのない労使関係を作り上げることを要請している、生産を上げ、利益を増やしてこそ、労働条件の向上が図れる、〈3〉労使が協力し企業を守り、発展を図り、その中から労働条件の向上を産み出していくしか道はないのである、〈4〉労働組合も、同じような方針ではなく、今日に適応する組合の方針はどうあるべきかを考えて貰いたいと思う、などと従業員に訴えたのである。

〈3〉 また、原告は、昭和四九年一月、岩満を専務から社長に昇格させると共に、同年九月、それまで総務部の一部署に過ぎなかった人事部を独立させ、組合変質化への本格的な体制固めをする一方、下級職制に対する係長研修、係長会議の名による意識変革教育を行い、昭和五二年の春闘時には、スト権投票に当たって非組合員たる管理職が組合員に反対投票を求めるといった支配介入まで行うようになった。

〈4〉 このような支配介入が続く中で昭和五三年八月の組合役員選挙が行われたが、この選挙の際、原告は、次のように、労使協調的な執行部を作り上げるため露骨な選挙干渉をした。

第一に、旧執行部を非難、中傷する「正常な労働組合について我々の基本的な考え方」と題する文書を配付した。なお、その内容が余りにも原告の主張と酷似していることなどからみて、この文書が原告の手によるものであることは明らかである。

第二に、職制を通じて、旧執行部を支持する組合員に対し、定期昇給や一時金査定の際の悪影響をほのめかし、また、旧執行部及びその支持者たちが企画するレクリエーション活動への不参加を促すほか、組合での発言を捉えて問責するなど、数々の嫌がらせや脅しをもって、旧執行部と組合員の切り離しや、旧執行部の孤立化を図った。

〈5〉 このようにして、昭和五三年八月の組合役員選挙で労使協調的な執行部が成立した後も、原告は、一方で、従業員に対して、〈1〉東京焼結の中で、一部に経営と従業員の関係は対立関係にあると説く人がいるが、あるのは機能分担であり、基本的な対立などあり得ない、〈2〉原告発展の基礎は、労使の協調とそれによる生産性の向上にあり、その体制の上に業績が向上してこそ労働条件の改善を図ることができる、などと労使協調の必要を訴えて旧執行部批判を行いながら、他方で、旧執行部の一員である鶴見、新井の行った正当なビラ配布に対して不当な警告を行って弾圧したほか、旧執行部派の者たちと組合員とを引き離すための嫌がらせや脅しを続けた。

(3) 原告が、旧執行部を嫌悪し、これに敵意を抱いてきたことは、業界誌「素形材」昭和五九年一一月二〇日号に掲載された岩満の随想によって、決定的に明らかである。そこにおいて、岩満は、〈1〉人材派遣の要請に対して、トヨタが重視したのは、原告の労使関係であった、絶えず激突している労使関係を正常化しない限り、原告の発展はあり得ないと判断したのであった、そこで、昭和二五年のトヨタ大争議における闘争委員長、全自動車労組中央執行委員長等の長い労働運動の私の経験を買っての派遣であった、〈2〉昭和四七年五月の株主総会で取締役就任、専務に就任するやいなや、夏季一時金交渉に責任者として引っ張り出され、労働組合との対決が始まった、〈3〉業界の人との付き合いよりも、こちらは労働組合との対決と経営の立て直しが重要であった、〈4〉労働組合の激しい反対闘争を排除して、目的としたことを成し遂げた、〈5〉私が原告に着任した目的であった階級的労働運動を排除して、健全で、建設的な労使関係を作り上げていくということは、着任以来五年を経てほぼでき上がった、〈6〉それ以降、労使関係を更に相互信頼に基づく労使協調の関係に相互に成長すべく努力しているところであり、その成果も上がってきている、などと述べているのである。

右「素形材」の発行時期からみて、右〈5〉の「階級的労働運動の排除が着任以来五年を経てほぼでき上がった」というのが、昭和五三年八月の労使協調派執行部の成立を指し、また、右〈6〉の「それ以降、労使関係を労使協調の関係に相互に成長すべく努力しており、その成果も上がっている」というのが、本件配転や本件再配転、昭和五七年頃からの生産性研修を指すことは明白である。

(4) 以上のとおり、原告が、旧執行部及びその後身である旧執行部派に対して、労使協調による生産性向上に敵対し絶えず激突しているような労使関係を作り出す許すべからざる存在であると認識し、激しい敵意と露骨な嫌悪の情を抱いていたことは明白である。

(三) 小川の旧執行部派における中心的な役割と本件配転及び本件再配転の不当労働行為性

(1) 小川は、まさしく旧執行部派の中心的存在として、とりわけ本件配転の直前には、書記長当選にあと一歩のところまで肉薄する勢いを示すほどの活発な組合活動を展開してきたのである。すなわち、〈1〉小川は、昭和四八年八月以降、昭和五六年八月まで毎年必ず組合役員選挙に立候補し続けてきたこと、〈2〉中でも、昭和五一年八月、五二年八月、五三年八月、五五年八月の各選挙では、要職である書記長に立候補してきたこと(昭和五六年八月も当初は書記長に立候補の予定であった。)、〈3〉昭和五五年八月の役員選挙では、書記長候補として落選するも対立候補との票差二八、得票率四三パーセントと当選にあと一歩のところまで肉薄し、翌昭和五六年八月の役員選挙では書記長当選への期待が強まっていたこと、〈4〉併せて、昭和五五年九月以降、「こぶし」の発行責任者となり、プレス二勤問題、春闘、一時金などについて見解を表明し積極的な組合活動を行ってきたこと、〈5〉組合機関誌「なかま」への投稿を積極的に行い、組合役員選挙の際も積極的に意見を公表し、その他の組合の集会等でも積極的に発言をして、組合員の生活と権利を守る立場から、合理化攻撃に対して果敢に闘ってきたこと、などの事実に照らせば、小川が文字どおり旧執行部ないし旧執行部派の中心的な活動家として活発な組合活動を行ってきたものであることは、誰の目にも明らかである。

(2) そして、原告は、右のような小川の活動状況を充分に承知していたのであるから、本件配転が、昭和五六年度の定期人事異動を利用して、小川を組合と川越工場の職場から切り離し、原告の合理化攻撃に反対する旧執行部派とその支持者たちの士気をくじくと共に、昭和五六年八月に行われる組合役員選挙を乗り切ることによって、プレス完全二勤制度の導入を初めとする利益倍増計画の実現に向けての原告の合理化策を貫徹させることを狙ったものであることは、明白である。

本件配転に込められた原告の狙いが右のようなものであることは、本件配転の結果、小川が、昭和五六年八月の組合役員選挙で副執行委員長候補に立候補しながら、立候補資格を失ったのに対して、逆に、この選挙で労使協調派執行部の存続に成功した原告が、新執行部の成立から僅か一か月後の同年一〇月二日、原告提案からみても僅か三か月後に、プレス完全二勤協定の締結を難なく実現したことによって実証されている。このことは、昭和五四年五月に原告が提案したプレス二勤の合理化提案が昭和五五年一二月に実現するまで一年半以上を要したことと対比するとき、より一層明らかであって、本件配転が旧執行部派の活動に重大な支障を与えたことを意味する。

(3) ところで、川越工場では、本件配転の後も旧執行部派が依然として相当の勢力を維持しており、旧執行部派の一員である小川がここに戻れば、その活動歴、人柄からみて、反労使協調派の有力なメンバーとして熱心に組合活動を行い、一般組合員に多大の影響力を及ぼすであろうことは明らかであり、その影響力次第では、旧執行部派が再び組合執行部に復活する可能性も充分にあったのである。そこで、原告は、旧執行部派が復活して、せっかくの長年にわたる努力が水泡に帰することを恐れ、小川の活動を封殺し、かつ、一般組合員との接触を断つべく、川越工場からの排除を目的として本件再配転を断行したのである。

2 本件配転及び本件再配転の必要性、合理性に関する原告の主張に対する反論

本件配転及び本件再配転の必要性、合理性に関する原告の主張は、以下に述べるとおり、矛盾に満ちており、そこに一貫性があるとすれば、それは小川を川越工場から排除するという一点だけである。

(一) 本件配転について

(1) 原告は、原告がヒートパイプの拡販にそれほど力を入れていたとは認め難いとした被告の主張を縷々論難する。

しかしながら、次のとおり、原告がヒートパイプの拡販にそれほど力を入れていたとは認め難い旨の被告の主張は正当である。〈1〉長期計画における製品売上目標は、昭和五六年度は特機(ヒートパイプ等)に重点がおかれているが、長期的には特品(焼結ベント等)の拡販に重点がおかれており、また、この長期計画にはヒートパイプの具体的な売上目標額の記載がないこと、〈2〉昭和五六年一月一九日の役員会で承認された同年度売上計画では、ヒートパイプの売上計画額が八〇〇〇万円となっているのに、同年三月の会社方針ではそれが六五〇〇万円と一五〇〇万円減少していること、〈3〉昭和五六年二月一〇日のトヨタ自工との経営懇談会の席上で説明された長期計画には、ヒートパイプ拡販の具体的記述がなく、また、ヒートパイプは最重点新規品に含められていなかったこと、〈4〉昭和五六年度会社方針には、ヒートパイプの拡販に関する具体的な記述がなく、また、販売の重点方策として、トヨタグループのシェア拡大とパワーステアリング部品の拡張販売を軸にした売上目標の達成を図ることが挙げられていたこと、〈5〉浜松出張所における昭和五七年度のヒートパイプ売上目標額が、昭和五五年一二月の当初計画では一億二三〇〇万円とされていたのが、昭和五六年八月には売上見込み七二〇〇万円と減額され、しかも、昭和五七年度の売上実績は、一一〇〇万円と昭和五六年度の五八〇〇万円に比べて大幅に減少していること、〈6〉昭和五七年度会社方針には、ヒートパイプの売上目標は掲げられておらず、その理由の記載もないこと、〈7〉浜松出張所の増員に関して、被告主張のような稟議書が作成されていること、〈8〉ヒートパイプの営業用パンフレットなどは特に作成されておらず、必要があれば、昭和五〇年に作成した「ヒートパイプ技術資料」を抜粋するなどして対応していたこと、などの諸点に照らすと、本件配転当時、原告にはヒートパイプの拡販計画が存在しなかったことは明白だからである。

なお、原告は、昭和五六年度のヒートパイプの売上目標額の減額修正について、焼結品、油圧ポンプ、特品の売上目標額についても同様であり、ヒートパイプだけを減額修正したのではない旨弁解するが、このような主張自体、ヒートパイプも他の製品と同様の扱いをしていたことに過ぎないことを自認するものであって、ヒートパイプの拡販に力を入れていたことの論拠とはならないというべきである。

(2) 原告は、小口所長や矢頭名古屋営業部長代理が作成した稟議書について、その作成経緯を縷々弁解し、補充すべき人材として、工業高校卒業以上で、できれば春日井工場の現役が望ましい旨の記載は、小口所長の個人的な発想に過ぎないとして、これを無視しようとしている。

しかしながら、原告がどのように弁解し、また、浜松出張所に増員の必要性があったとしても、その現場の長である小口所長が求めていた人材は、工業高校卒業以上で、できれば春日井工場の現役が望ましく、場合によっては新聞広告による公募でも良いと考えていたことは、紛れもない事実であり、原告もそれを否定できないのである。

そして、浜松出張所の売上の九〇パーセントは春日井工場で製造された焼結品で、しかも、前述のように、ヒートパイプの拡販計画など存在しなかったのであるから、小口所長が右のように考えたのは至極当然のことであるにも拘らず、原告は、小口所長の個人的な発想に過ぎないとして、これを無視しようとしているのである。また、矢頭が作成した稟議書にも、各得意先の技術、設計部門との接触を増やしてその需要を先取りする必要があると記載されているだけで、ヒートパイプ拡販との関係については一言も触れられていないのである。

(3) 原告は、本件配転後の小川の後任に青山を人選したことについて、ヒートパイプの経験年数だけを基準に浜松出張所への補充人員を決定したものではなく、青山が焼結品に関して七年以上の経験を有していることをも考慮した旨主張している。

しかしながら、これは、原告としても、青山が本件配転の人選の際に候補に挙がった者の中でヒートパイプの経験が一番短いことを事実として認めざるを得ないことから、弁解に窺して、今後は、青山は焼結品に関して七年以上の経験を有していると主張しだしたものであり、まさに支離滅裂というほかはない。

(二) 本件再配転について

(1) 東京営業所における増員の必要性の不存在

原告は、東京営業所に増員の必要性があったものとは認め難いとする被告の主張を論難し、本件再配転当時、東京営業所には増員の必要性があった旨主張するが、以下に述べるとおり、原告の右主張は失当である。

〈1〉 原告は、被告の主張を非難して、東京営業所における増員は、焼結品、焼結ベントの拡販及びヒートパイプの拡販のための基礎調査という東京営業所全体の営業活動強化のためであり、単にヒートパイプだけの問題ではない旨主張する。

しかしながら、原告の右主張を前提にしても、本件再配転当時、東京営業所に増員の必要性はなく、まして小川を配属しなければならない必要性は全くなかったのである。すなわち、ヒートパイプについてみるに、東京営業所においては、昭和五八年度のヒートパイプの具体的な拡販目標が存在しなかったのである。ヒートパイプの売上は、全社的にも、昭和五六年度をピークに激減しており、まして東京営業所におけるヒートパイプの販売実績は、最高の昭和五七年度においてすら一〇〇万円、全社売上の僅か七パーセントに過ぎず、昭和五五年度、五六年度においては各二〇万円、全社売上の〇・四パーセント、〇・三パーセントという状況であり、昭和五八年度は僅か一〇万円、五九年度、六〇年度は共に売上零というものであり、これでは昭和五八年度の具体的売上目標の立てようがなかったはずであり、精々、原告が主張するように、ヒートパイプの拡販のための基礎調査という程度の目標しか立てられなかったのである。そして、この程度の目標のために、増員をする緊急性も特段の必要もないことはいうまでもない。まして、ヒートパイプについて知識、経験を有する小川を配属する必要性はない。

次に、焼結ベントについてみるに、焼結ベントは、商品の性質上、継続して大量の受注を望めなく、新規開拓のための営業活動を行い得意先を増やす以外に拡販の方法はないのであるから、長期的視野に立って地道に営業活動を積み重ねることが、拡販のための唯一の方法なのであって、緊急にそのための増員をしなければならないといったものではない。加えて、従前、焼結ベントの拡販は、東京営業所の営業所員のほぼ全員が行っていたものであって、特段の知識・経験を有する必要はなく、いわば誰が行ってもよいのであるから、そのために小川を配属しなければならない特段の必要性があったとは到底認め難い。更に、焼結品についていえば、東京営業所に赴任後の小川が焼結ベントとヒートパイプ全般を担当し、焼結品を担当しなかったことからみて、焼結品の拡販に当たらせるために小川を東京営業所に配属したものでないことは明白である。

このように、焼結品はもとより、ヒートパイプ、焼結ベントのいずれについても、小川をあえて東京営業所に配属してその営業活動を行わせなければならない必要性は全く認められないのである。

〈2〉 原告は、東京営業所における営業担当者(北関東出張所を除く。)の人数が変動していることについて、縷々弁解している。

しかしながら、昭和五八年八月に必要があって小川を配属し五人体制にしたものを、なにゆえ、その僅か一年後の昭和五九年八月に二名減員して三名体制にしたのか、合理的な説明をしていない。すなわち、原告は、三人体制にしても、業務分担を変動したり、ペアで営業活動を行っていたものを単独で行わせるようにしたりなどして対処しており、それで支障がないのかのごとく主張するが、もしそうであるならば、昭和五八年においても、業務分担の変更等をすることに特段の支障があったとは考え難いのであるから、そのようにすれば足りたのであって、あえて増員する必要はなかったはずである。また、原告は、昭和六〇年五月に新規採用者一名を配属して四人体制になったとも主張するが、これも弁解にならないどころか、要するに、新規採用者、つまり当分の間は三石とペアを組んで営業活動に従事させる程度の新人を含めて四人いれば、仕事の分担を多少手直しすることで東京営業所の営業活動は充分に賄えることを自ら認めるものにほかならないのである。

〈3〉 原告は、森田東京営業部長が、小川に対し、「すぐに売上に寄与するような仕事でないので気長な気持で業務に当たって欲しい。」といった旨の被告の主張を非難し、森田は、小川に対し、ヒートパイプの営業に関して、東京地区においては、一〇社ほど特機部から引き継いで今日まできたけれども、充分な営業活動がされていないので、浜松での小川のキャリアを生かして、それらの得意先をもう一度洗い直し、また、新たな得意先を開拓するため頑張って貰いたいと話したに過ぎない旨主張する。

しかしながら、森田の発言が、仮に原告主張のとおりだとしても、それは、「すぐに売上に寄与するような仕事でないので気長な気持で業務に当たって欲しい。」ということを言葉を換えていったに等しいというべきである。

〈4〉 以上のとおり、本件再配転当時、東京営業所において増員の必要性があったとは到底考えられず、仮に百歩譲っても、原告の主張する増員の必要性とは、一般的、抽象的な必要性をいうに留まり、小川を東京営業所に配属しなければならない具体的な必要性は全く存在しないのである。

(2) 川越工場における増員の必要性の有無について

原告は、本件再配転当時、川越工場で増員が予定されたのは特機部の係長職一名だけであり、他に増員すべき職場は存在しなかった旨主張する。

しかしながら、これは、川越工場から右係長職一名のほか増員希望がなかったというだけであり、人事部などが小川を川越工場に戻すための検討とか、働き掛けとかを行った形跡は全くないのである。先に、原告は、浜松出張所の増員要請については、現場の長の意向は個人的なもので原告の方針が優先するかのごとき主張をしておきながら、今度は、現場から要請がなかったのだから、戻す職場は存在しなかったと主張するものであって、不誠実極まりない。

そして、本当に川越工場には小川を戻す職場がなかったかといえば、そうではなかったのである。すなわち、小川が本件配転前に所属していた技術部第二技術課には、昭和五七年七月、大学の動力機械工学科を卒業し同年三月に新採用された森谷が、また、昭和五八年五月、大学の機械工学科を卒業し同年三月新採用された荒井が、それぞれ配属され、複合材の材料開発やその製品に関する研究開発の業務に従事していたのであるが、右両名とも、程なくして配置換えとなり、複合材の材料開発などとは全く異なった業務に従事していることからみて、右両名が複合材の材料開発などに専念する目的で配属されたとは到底認め難く、右両名の従事していた業務が、工業高校出身で本件配転まで勤続一四年、技術歴五年の経験をもつ小川の知識、経験をもってしても務まらないものであったとは考え難い。また、原告は、本件再配転後の小川の後任として青山を川越工場から浜松出張所に配転したのであるから、少なくとも青山が所属していた焼結製造部は一名欠員となったはずであり、そこに小川を戻す余地はあったはずである。更には、原告は、昭和五八年度会社方針で、生産効率を高め、納期遅れを零にすることを重点目標に掲げていたのであるから、生産部門の強化が緊急の課題だったはずであり、この点からも、川越工場の生産部門に小川を配属する余地がなかったとは認め難いというべきである。なお、原告は、営業担当者が納期管理業務のため川越工場に赴くことが多く、本来の営業活動に充分な力を注ぐことができない状況にあったからこそ、営業部門を増員して営業体制を強化しようとした旨主張するが、もしそうであるなら、根本的な問題は生産部門を強化して納期遅れを解消することにあるはずであり、この点を解決しないことには、営業担当者をいくら増員しても焼け石に水のはずである。

第三争点についての判断

一  本件紛争の経緯

1  本件配転に至までの労使関係など

いずれも成立に争いがない(証拠略)の全趣旨を総合すると、次の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

(一) 原告は、昭和三七年頃から、トヨタ自工との取引を開始し、昭和四七年五月、トヨタ自工で労働組合の委員長を務めたこともある岩満を専務に迎え入れた。

(二) 組合は、昭和四五年以降、鶴見が執行委員長の地位にあったが、その当時の闘争方針は、労使間の協議の具体的な進展状況に拘らず、予め設定したスケジュールに基づいて争議行為を反復、展開するというもので、春の賃上げ、夏の一時金、年末一時金などについて原告に要求を提出すると、定められたスケジュールに従い、時限スト、全日スト、指名スト、全員スト、時間外労働の拒否、公休出勤拒否などを反復して行い、また、リボン、ワッペン、鉢巻き、腕章類の着用などの闘争を展開し、場合によっては、一つの交渉時期にこれらの争議行為が数波から一〇波以上に及ぶこともあった。

そして、組合とほぼ同様の闘争を行っていた春日井支部が昭和四八年六月二日付けで作成した同年の「春闘妥結資料」には、同じ地区にある他の労働組合から、「ストというのは労働者のめったにやってはならない大切な権利である。焼結さんみたいにバカバカやれば、出るものも出ないし、自分で自分の首を絞めるようなものだ。」「もっと考えて闘うべきだ。」との発言のあったことが記載されていた。

(三) 原告は、昭和四八年四月、当時の組合幹部の姿勢を闘争至上主義と非難し、労使一体となった生産性向上への取組み強化の必要性などを訴える「全従業員に訴える」と題する文書を、また、同年一二月末、労働組合も合理化自体を自らの問題として認識し、原告と協力していく態度が必要であるなどと訴える「一九七三年を終えるにあたって―石油危機に対処する心構え―」と題する書面を、それぞれ従業員に配布した。

原告は、その後も、折をみては、社内報などでストのない労使関係や労使協力の必要性を従業員に訴えた。

(四) 昭和四九年一月、岩満が原告の社長に昇格した。その後、原告は、同年九月までに、それまで総務部の一部署で取り扱っていた人事関係部門を人事部として独立させ、新たな人事評価制度を作り、係長研修等の教育訓練を実施したほか、昭和四九年、年間総労働時間の短縮に伴う一日の労働時間延長等を内容とする就業規則の変更、昭和五〇年、「企業再建計画」による人員整理、昭和五一年、いわゆる「カンバン方式」の導入、昭和五二年、得意先に応じた休日編成の実施や、夏季と冬季の一時金への成績査定の導入の提案、昭和五三年、一時金における欠務評価の導入の提案など各種の施策を推進した。

(五) 当時の組合執行部は、右(四)の一連の施策に対して、ワッペン着用、寄せ書の掲示、時間外労働の拒否、ストライキ等の反対闘争を行ったほか、変更された就業規則に基づく就労義務が存しないことの確認を求めて裁判所に提訴したり、二回にわたり埼労委に救済申立を行ったりした。

なお、当時の組合執行部は、昭和四五年以来八年にわたり鶴見が執行委員長を務め、また、全国金属埼玉地方本部の執行委員長に鶴見を就任させるなど、埼玉地方本部の拠点としての役割を果していた。

(六) 昭和五三年八月、組合の役員選挙が行われた。この選挙では、前記(四)の得意先に応じた休日編成の実施や、一時金への成績査定の導入などの原告提案について、組合としてどう対処すべきかが争点となっていたが、選挙に当たって、鶴見や小川ら当時の執行部を批判する「正常な労働組合についての我々の基本的な考え方」と題する無署名のタイプ印刷された文書が組合員に配付された。プレス職場では、組合である係長が右文書を配付した。

(七) 右(六)の選挙の結果、副執行委員長に立候補していた鶴見や書記長に立候補していた小川が、共に四〇パーセント強の得票を得たものの落選するなど、従前、原告の施策に反対してきた鶴見や小川らの従来の執行部に同調するグループからは執行委員二名が当選したのみで、代って、組合内の労使協調を主張するグループから執行委員長、副執行委員長、書記長の組合三役と執行委員二名が当選し、ここに新たな執行部が成立した。

なお、昭和四五年から五二年までの旧執行部では、鶴見が八年にわたって執行委員長を務めたほか、宇津木国男が三年、田熊誠一が一年、阿左美誠蔵が二年、新井修が二年にわたって副執行委員長を、右阿左美が一年、山根威徳が一年、田辺卓史が二年、長谷洋志が二年、小川が二年にわたって書記長をそれぞれ務めたが、小川を除く八名の役員経験者は、組合の主導権を失った後も引き続き川越工場に勤務して組合活動を続けている。そして、昭和五四年、五五年に実施された役員選挙でも、旧執行部から組合三役に立候補した者は、いずれも落選はしたが四〇パーセント強の得票を獲得し、一名は執行委員に当選している。

(八) 昭和五四年五月、原告は、Ⅰ勤(早出)とⅡ勤(遅出)が重なる労働時間(以下、この重なる時間を「ラップ時間」という。)の解消とⅡ勤の労働時間を三〇分延長して常昼勤者と同じにするという内容のプレス部門の二交替制勤務改定の提案を行った。

旧執行部派は、右原告の提案に反対し、同年八月に行われた組合の役員選挙では、執行委員に立候補した小川が、選挙公報などを通じて右原告の提案に反対する旨訴え、当選した。

(九) 昭和五四年一一月一九日、原告は組合とプレス部門の二交替制勤務改定問題について労働協約を締結したが、この協約では、Ⅱ勤者の労働時間の延長やラップ時間の短縮は実現したものの、原告が当初に意図していたラップ時間の解消は、終電車に間に合わない従業員の扱いの問題もあって実現しなかった。そして、ラップ時間の解消は、労働時間の延長に伴う対応措置として組合が要求した年間休日の増加問題と共に、継続して協議されることとなった。

なお、この労働協約では、有効期間が同月二六日から翌年五月二四日まで、自動延長期間が六か月と定められた。

(一〇) 昭和五五年八月、組合の役員選挙が行われ、小川は、書記長に立候補し、プレス部門の二交替制勤務改定問題について、Ⅱ勤の労働時間の延長問題を解決することが前提であり、ラップ時間の解消には反対である旨訴えたが、結局、一一三票対八五票の二八票差で落選した。

しかし、小川は、その後も引き続き、ラップ時間を解消したいなら、延長時間を解消してここに充てるべきである旨の記事を、自らが編集委員会の代表(従前、鶴見が代表を務めていたが、昭和五五年九月以降、小川がそれを引き継いだ。)を務める職場新聞「こぶし」に掲載するなどして、ラップ時間の解消に反対することを職場に訴えた。

なお、右「こぶし」は、全従業員に配付し得る部数が印刷され、職場で直接手渡すなどの方法で従業員の約半数には配付されており、原告も、川越工場で「こぶし」が配付されていることについて、工場の職制が本社の兵頭人事課長に連絡したり、その写しを届けたりしていたことから、これを了知していた。

(一一) 昭和五五年一一月二四日、前記(九)のプレス部門の二交替制勤務改定に関する労働協約の自動延長期間が満了し、その後の原告と組合との交渉の結果、同年一二月二六日、終電車に間に合わない従業員は原告がタクシーで送ることで妥結し、ラップ時間の解消を内容とする労働協約が締結されたが、組合がラップ時間の解消によって生ずる労働時間の延長に伴う対応措置として要求していた年間休日の増加については、執行部が要求を放棄したため実現しなかった。

これに対して、旧執行部派は、労働条件の低下を承認するものであり、年間休日の増加も実現していないとして、執行部の右のような対応を批判し、小川も、組合の機関誌「なかま」の昭和五六年一月二一日号に同旨の意見を掲載した。なお、春日井工場では、ラップ時間の解消問題は、大部分の従業員が自動車通勤をしているため、昭和五四年五月の原告の提案から約三か月で原告と春日井支部との交渉が妥結し、ラップ時間の解消が実現していた。

(一二) 昭和五六年七月六日、原告は、組合及び春日井支部に対し、人事部が昭和五五年八月に検討を開始し、翌年二月頃から組合への具体的提案方法などについて検討をしていた完全二交替制勤務の提案を行った。これは、従前の労働協約では、四週間のうち二週間は常昼勤務であったものを、昭和五六年八月一七日以降、プレス部門の常昼勤務をなくし、全てⅠ勤とⅡ勤の交替勤務の繰返しにするという内容のものであった。

更に、原告は、同年七月一三日、「二交替制勤務制度の改定に関する提案について」と題する文書を全従業員に配付し、後記2の(五)の長期計画とその初年度に当たる昭和五六年度計画達成のため、完全二交替制勤務の速やかな実現を要望している旨訴えた。

(一三) 組合執行部は、右(一二)の原告提案についての職場討議を指示し、昭和五六年七月二三日頃から二七日頃にかけて第一次の職場討議が行われたが、その際、当該職場であるプレス部門からは、二勤の必要性は理解するが、現行制度の中でもいろいろ問題点があり、問題点の改善と我々の納得のいく方向での解決を求めるとの意見が出され、他の職場でも、二勤の必要性は認めるが、現状でも問題点はいろいろあるとする意見があった。

執行部は、この結果を受けて、同年八月一日、春日井支部との合同執行委員会を開催し、執行部としては原告提案を受け容れることを確認し、その方向で同月八日から一一日の間に第二次の職場討議を行うよう下部に指示した。

(一四) 他方、旧執行部派は、昭和五六年七月二七日、前記(一二)の原告提案について、人員を増やすことなく生産を増やす計画の前提となるものであり、より一層の労働負担の増加となる、家庭生活面でも多くの障害をもたらす、完全二交替制勤務をやれない者の強制配転や実質的な退職強要をもたらしかねないなどの問題点が多い旨記載した「こぶし」を職場に配付し、原告提案に反対であることを訴えた。

(一五) 昭和五六年八月、例年どおり組合の役員選挙が行われ、副執行委員長に立候補した小川は、選挙公報で、「Ⅱ勤の会社提案は、私の職場では圧倒的多数の人が会社の案そのままでは賛成していませんでした。しかし、執行委員会から出されてきたものは、『受け入れる』ということが前提でした。これは、働く者の立場にたって集約をしたのでなく、会社の立場にたって集約したとしか思えません。」として、原告提案に反対である旨訴えると共に、執行部の姿勢を批判した。もっとも、小川は、後記2の(二七)のとおり、同月二八日、異議を留めて本件配転に応じたため、結局、選挙期間中に立候補資格を喪失することとなった。

なお、旧執行部派は、同年七月初旬頃、同年八月の役員選挙で小川を書記長候補に擁立することを決定し、組合員の自宅を訪問するなどの活動を行っていたが、本件配転問題が起ったことから、本件配転に応じなければならなくなった場合の組合運営を考慮して、同月二四日の選挙告示間際に、急遽、小川を書記長候補から副執行委員長候補に変更していた。

(一六) 完全二交替制勤務問題については、その後、原告と右(一五)の役員選挙で選出された新執行部(旧執行部派からは執行委員に山田茂一名が当選したのみであった。)との間で経営協議会を舞台とした協議が行われ、これと平行して行われた第三次と第四次の職場討議を経て妥結し、同年一〇月二日、原告提案どおりの内容で労働協約が締結された。

(一七) ところで、岩満は、専務就任以降の労使事情について、業界誌「素形材」の昭和五九年一一月二〇日号において、「絶えず激突している労使関係を正常化しない限り、東京焼結金属の発展はあり得ない……そこで、昭和二五年のトヨタ大争議における闘争委員長、『全自動車』労組の中央執行委員長等の長い労働運動の私の経験を買っての派遣であった。」「昭和四七年五月の株主総会で取締役就任、専務に就任するやいなや、夏季一時金交渉に責任者として引っぱり出され、労働組合との対決……が始った。」「私が東京焼結金属へ着任の目的であった階級的労働運動を排除して、健全で建設的な労使関係を作り上げていくと云うことは、着任以来五年を経て、ほぼ出来上がった。それ以降、労使関係を更に、相互信頼に基づく労使協調の関係に相互が成長すべく努力しているところであり、その成果も上がって来ている。」と述べている。

2  本件配転について

(証拠略)の全趣旨を総合すると、次の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

(一) 浜松出張所は、昭和五六年七月当時、小口所長と女子事務員の二名で構成され、浜松地区の得意先に対する焼結部品、ヒートパイプ及び焼結ベントの受注・販売・技術サービス等の業務のほか、浜松地区の加工業者に請け負わせている焼結部品の品質・納期管理等の外注管理という同出張所特有の業務を行っていたが、売上は焼結品が九割前後を占め、主に春日井工場が生産する焼結品を扱っていた。

浜松出張所の売上実績及び全社売上に占める割合は、昭和五〇年度の一億三〇〇〇万円、四・三パーセントから五五年度の四億三〇〇〇万円、八・二パーセントへと年々増加し、このような取引高の増大に伴い、浜松出張所では、本来の業務に加えて外注管理などの業務に追われるようになり、小口所長と女子事務員は、公休出勤や長時間残業(小口所長の場合、一か月に五〇から八〇時間)が常態となっていた。

(二) ところで、ヒートパイプは、熱をほぼ等温で輸送すること、見掛け上の熱伝導率が銅の一〇〇倍から一〇〇〇倍と非常に高いこと、軽くていろいろな形状のものが作れること、可動部がないため故障が少ないことを特徴とする熱伝導材である。

原告におけるヒートパイプの研究開発は、川越工場の技術開発部第二技術課が担当して昭和四八年九月から始まり、昭和五二年からは産業界との接触も増え、昭和五三年、五四年と応用研究、試作納入が一段と進展し、一部で試験的に製品に採用されたりした後、鈴木自工のバイク「スワニィー」のオートチョーク機構用に正式採用され、昭和五五年一月から鈴木自工向けに本格的な量産納入を開始した。その後、昭和五五年四月二一日をもって、ヒートパイプの生産は、技術部から同じく川越工場の特機部に移管された。

ところで、鈴木自工などのヒートパイプの主要取引先は浜松出張所の所管であったが、小口所長が春日井工場の焼結製造部門出身でヒートパイプに関する技術的知識がなかったことから、ヒートパイプの技術的側面について対応する必要がある場合には、その都度、川越工場の技術部第二技術課から斉藤係長が同出張所へ赴いていた。

(三) 昭和五五年三月、原告は、五五年度会社方針を発表したが、それによると、同年度の売上目標額は五一億三八〇〇万円、そのうちヒートパイプは五〇〇〇万円とされ、同年度重点方策として、企業の三か年計画を策定し、企業管理体制を充実することなどが掲げられていた。

(四) 昭和五五年一二月一九日、原告は、営業部監査を行った。同監査には、社長、専務らの原告の首脳陣や営業部の管理職が出席し、営業部門の計画達成状況や長期計画(右(三)の三か年計画を指す。)についての検討を行ったが、この場で、名古屋営業部の責任者である矢頭名古屋営業部長代理は、浜松出張所と大阪営業所につきそれぞれ一名の増員を要請した。

なお、この要請に際して、矢頭部長代理は、人選に当たっての条件について特に希望を述べることはしていない。

(五) 昭和五六年一月一九日、長期計画(前記(三)の計画期間を昭和五九年度までの四年間の計画に延長したもの)が原告の役員会で承認された。

この計画は、昭和五五年四月初め頃から策定に着手されたもので、昭和五九年度の売上額を一〇〇億円に拡大することを目標に掲げて(なお、昭和五五年度の売上実績は五二億三六〇〇万円である。)、昭和五六年度から五九年度までの各年度の売上目標を各製品ごとに定めており、そのうちヒートパイプの売上額及び全売上に占める割合の目標は、昭和五六年度が八〇〇〇万円、一・二パーセント、五七年度が一億五〇〇〇万円、一・九パーセント、五八年度が二億円、二・三パーセント、五九年度が二億五〇〇〇万円、二・五パーセントとされていた。

また、長期計画に先立って、昭和五五年一二月に策定された浜松出張所の昭和五九年度までの売上計画によると、総売上額の目標は、昭和五六年度が五億七六〇〇万円(そのうちヒートパイプが六五〇〇万円。以下、かっこ内はヒートパイプ)、五七年度が七億七三〇〇万円(一億二三〇〇万円、なお、後記(一二)の原告が従業員に配付した「小川邦夫君に対する転勤命令の件」と題する書面では、五七年度にヒートパイプの月商を六〇〇万円、つまり年商を七二〇〇万円に拡大する計画である旨記載されている。)、五八年度が九億二〇〇〇万円(一億五〇〇〇万円)、五九年度が一〇億六〇〇〇万円(二億円)とされていた。なお、浜松出張所におけるヒートパイプの実際の売上実績は、昭和五六年度は五八〇〇万円、五七年度は一一〇〇万円であった。

(六) 昭和五六年一月末頃、原告は、岩満社長、小野常務らが協議して、前記(四)の営業部監査の際に要請のあった浜松出張所及び大阪営業所の各一名の増員と営業部監査の後に要請のあった本社特機部営業課への一名の増員を正式決定し、同年二月五日頃、亀田人事部長が矢頭部長代理にその旨連絡した。これらの三名の増員は社内配転で実施することとされ、実施時期は定時株主総会終了後の七月が予定された。

なお、原告の人事異動は、毎年六月末に開催される定時株主総会終了後に実施される慣行となっており、昭和四七年は八月に、四九年と五〇年は九月に、五二年と五三年は八月と九月の二回に分けて、五四年と五五年は七月に、それぞれ実施された。

(七) 昭和五六年二月一〇日、春日井工場で、原告とトヨタ自工との経営懇談会が開催され、席上、岩満社長以下の原告の首脳陣がトヨタ自工側に原告の経営状況を説明したが、その際、前記(五)の長期計画の構想を明らかにし、それを実現するため、〈1〉トヨタ自工グループのシェア拡大(昭和五七年度までに三〇パーセント以上、将来は五〇パーセントを目標とする。)、〈2〉パワーステアリングポンプ、ディーゼル噴射ポンプ部品、油圧パッケージなど重点新規品の計画的な受注活動、〈3〉拡販のための営業部組織の充実と要因の増強(大阪営業所、浜松出張所及び本社特機部営業課に各一名を増員する。)、〈4〉不採算部品の是正(提案活動、受注内容の改善)を重点的に実施することが必要である旨説明した。

(八) 昭和五六年三月、原告は、昭和五六年度会社方針を発表したが、それによると、同年度の売上目標額は六一億円、そのうちヒートパイプは六五〇〇万円とされ、販売面における重点実施事項として、〈1〉トヨタ自工グループの販売シェアの拡大、〈2〉重点新規品の計画的な受注活動の推進、〈3〉組織の充実、強力な販売体制の確立、〈4〉原価意識をもった営業活動の実施が掲げられていた。なお、これは、前記(五)の長期計画の昭和五六年度売上目標額と比べて、総売上で四億円、ヒートパイプで一五〇〇万円減額修正されている。

また、右方針では、前記(五)の長期計画の概要が明らかにされ、重点目標として、昭和五九年度の売上を一〇〇億円以上とすること、また、重点方策として、〈1〉販売については、トヨタ自工グループのシェア拡大とパワーステアリング部品の拡販を軸にした売上目標の達成、〈2〉生産については、拡販に対応する生産体制の確立、トヨタ生産方式の確立と維持、設備の効率的使用、〈3〉技術については、特徴ある固有技術の確立、重点新規品の開発スピードの向上、〈4〉労務については、労使協議の場を充実し労働組合との意思疎通を図ることによる労使関係の長期安定化が、それぞれ掲げられていた。

(九) 昭和五六年三月下旬頃、前記(六)の特機部営業課の増員について、特機部と東京営業部との間で検討が行われ、同年四月一日付けで東京営業部所属の従業員を配転することによって実現した。

(一〇) 昭和五六年五月下旬頃、原告は、小野常務、亀田人事部長、兵頭人事課長らが中心となり、昭和五六年度の全社的な人事異動を七月中に実施すべく具体的な検討に着手した。

(一一) 昭和五六年六月上旬頃、本社で、浜松出張所の増員について矢頭部長代理と人事部との協議が行われた。

右協議の結果を受けた人事部は、同月下旬頃、技術部門担当である伊藤常務に対し、〈1〉ヒートパイプについて得意先と技術的な対応ができる程度の知識・経験のある者、〈2〉焼結品に関して小口所長を補佐して活動できる程度の知識を有する者、という基準で人選するよう依頼し、これを受けた伊藤常務は、田端技術部長に具体的な人選を指示した。そして、田端技術部長は、原田特機部長及び平林技術部第二技術課長と相談のうえ、人事異動に関する社内通達、従業員の社内経歴を記録したカード、身上調書などを参照して人選を行い、川越工場の従業員の中から、技術部第二技術課所属の小川と岩崎稔、特機部技術課所属の池川正之と井上亘、生産技術部技術課所属の青山恭樹の五名をヒートパイプに関する知識・経験を有する者として候補者に挙げた。

右五名の当時までのヒートパイプと焼結品に関する経験は、次のとおりである。

〈氏名〉 〈焼結品に関する経験〉

小川 昭和四二年四月から昭和五一年六月までの約九年二か月間

〈ヒートパイプに関する経験〉

昭和五一年六月から昭和五六年六月までの約五年間

池川 昭和五二年五月から昭和五四年一〇月までの約二年五か月間

昭和五四年一〇月から昭和五六年六月までの約一年八か月間

岩崎 昭和五四年五月から昭和五四年一〇月までの約五か月間(入社時の実習経験)

昭和五四年一〇月から昭和五六年六月までの約一年八か月間

井上 焼結品に直接関与した経験はない。

昭和五五年四月から昭和五六年六月までの約一年二か月間

青山 昭和四八年六月から昭和四九年九月まで及び昭和五〇年九月から昭和五六年六月までの約七年一か月間

昭和四九年九月から昭和五〇年九月までの約一一か月間

田端技術部長は、右のとおり、小川以外の四名がいずれもヒートパイプに関する経験が二年未満であるのに対し、小川は、約五年間の経験があるうえ、その業務内容もヒートパイプの試作や性能測定、測定装置の設計、製作などに幅広く携わっていて、ヒートパイプに関する知識・取扱い経験共に人選対象者中、最も豊富と認められ、また、焼結品についても、金型製造ではあるが九年余りの経験があって、小口所長を補佐して営業活動ができる程度の相応の知識を有していると認められたことから、小川を対象者に人選した。

ところで、原告では、従前から、いわゆるセールス・エンジニアとして、技術部門から営業部門への配転が相当数行われており、また、妻帯者が配転になった例は、人選を担当した田端技術部長が調査した範囲内で三、四件存在した。

(一二) 人選手続を終了した田端技術部長は、その旨を伊藤常務に報告して承認を得た後、同常務の指示で、昭和五六年七月一〇日、小川を人選したことを直接人事部に伝えたが、その際、人選手続についての説明は行われなかった。

なお、人事部は、七月中旬頃、小川が人選された旨矢頭部長代理に連絡した。

(一三) 昭和五六年七月二七日、原告の常務会が開かれ、小川を含めた昭和五六年度の人事異動について決定し、社長の決裁を経た。

(一四) 昭和五六年七月二八日、原告は、田端技術部長及び平林第二技術課長を通じて、小川に対し、同年八月一日付けで浜松出張所へ配転する旨内示すると共に、浜松出張所の主要な取引先である鈴木自工を中心としたヒートパイプ及び焼結品の拡販のためには、現状の人員体制では不充分であること、また、人選の理由については、焼結品の相応の知識を持ち、ヒートパイプに関しても得意先の要請に対処できる知識・経験を持った人物を配置することとして人選手続を進めた結果、小川を適任と判断したものである旨その理由を説明した。

これに対して、小川は、原告の右説明のような事情は理解できるが、同人の配偶者が保母(川越市職員)として勤務しており、共働きが崩れると生活が成り立たないし、単身赴任も無理である、不適当な配転であって他に理由があっての配転だと思う旨述べて、配転には応じられないことを表明した。

なお、この日、原告は、小川以外の異動対象者に対しても内示を行った。

(一五) 昭和五六年七月二九日、田端技術部長と平林第二技術課長は、小川と面談し、再度、本件配転の業務上の必要性と小川を適任と判断した理由を述べて説明したが、小川は、再び、本件配転には応じられない旨表明した。

(一六) 昭和五六年七月三〇日、田端技術部長と平林第二技術課長は、小川と面談し、原告が八月一日付けで予定していた人事異動の対象から同人を除外し、同人に対する発令を延期したことを告げ、共働きだから転勤できないということでは企業の活力は生れない、原告の就業規則或いは一般の雇用慣行に照らしても転勤は当然のことである、単身赴任も含めて考えて貰いたい旨説明したが、小川は、配偶者の仕事の性質上再就職が難しいこと、配偶者が現在の仕事に強い愛着と誇りを抱いており、他の職場には移れない旨主張して配転を拒否する姿勢を改めて示した。

(一七) 更に、昭和五六年八月四日、六日、八日と、田端技術部長、亀田人事部長らが、小川の説得に当たり、その際、〈1〉単身赴任となった場合、別居手当及び月二回の帰省旅費を支給する、〈2〉浜松出張所における勤務期間を二年間に限定する、〈3〉配偶者の帰宅が遅くなる場合の二重保育の費用についても全額かそれに近い金額を原告が負担する、などの条件を提示したが、小川は、考えは変らないとして、やはり配転に応じなかった。

なお、小川は、同月四日、原告に対し、妻と共働きであることや子供の保育問題を理由に浜松出張所への配転には応じられない旨の「浜松出張所勤務に関する件」と題する文書を提出したほか、同月六日、組合に対し、小川への説得を中止するよう原告に申し入れて欲しい旨文書をもって要請した。

(一八) 昭和五六年八月一〇日、技術部門担当の伊藤常務と亀田人事部長が小川と面談したが、その際、小川は、原告が、小川が断り続けているにもかかわらず、浜松出張所への配転を撤回しないのは、小川の組合役員歴や組合役員選挙の度ごとに立候補していることが理由だと思う、小川は今回の組合役員選挙に多くの推薦を受け立候補するつもりでいるので、浜松出張所への配転には応じられない旨の文書を提出し、やはり配転を拒否する態度を示した。

(一九) 昭和五六年八月一七日、伊藤常務と田端技術部長が小川と面談したが、その際、小川は、基本的に考えは変っていない旨述べたうえ、原告がこれまで提示した条件を文書化するよう要求したのに対し、伊藤らは、できる限りの条件を提示して配転に応じてもらうよう話合いを行い、円満に発令したいと考えてきたが、これ以上話し合う余地がないのなら、原告としても考えなければならない旨答えた。

なお、この日、組合の執行部は、小川から事情を聴取した。

(二〇) 昭和五六年八月一八日、人事担当の小野常務、水嶋川越工場管理部長、兵頭人事課長が、小川と面談し、原告が既に提示した配転の条件を文書化した同日付けの人事部長名のメモを手渡すと共に、同月二〇日から浜松出張所勤務を命じる旨の同月一八日付け辞令を交付し、同月二六日までに浜松出張所に赴任するよう命じた。

(二一) 昭和五六年八月一九日、伊藤常務、水嶋管理部長、平林第二技術課長が小川と面談したが、小川は、現在組合と相談しており、明日態度を表明するとしたうえ、浜松出張所での二年間の勤務終了後の勤務地を明らかにして欲しい旨申し入れたのに対して、伊藤らは、埼玉県狭山市所在の自宅から通勤できる事業所に配属する旨の同日付けの人事部長名のメモを手渡した。

(二二) 昭和五六年八月二〇日、田端技術部長、水嶋管理部長、平林第二技術課長が小川と面談したが、その際、小川は、〈1〉提示された条件を含めて考えても、家庭に混乱をもたらす、〈2〉予想していなかった異職種への配転であり、業務遂行が困難である、〈3〉小川はこれまで組合活動を行ってきており、また、今回の役員選挙に立候補する予定であることを既に原告に表明しているが、本件配転は、組合活動に対する意図的な妨害行為であって許し難く速やかに撤回を求める旨の同日付け文書を提出し、重ねて浜松出張所への配転を拒否することを表明した。

(二三) 昭和五六年八月二一日、田端技術部長、水嶋管理部長らは、小川と面談し重ねて説得を行ったが、やはり小川は態度を変えなかった。

また、この日、小川は、原告による説得の経過やそこで提示された条件のほか右(二二)と同旨の配転拒否理由を記載した「配転辞令の撤回を求めています」と題する自己名義のビラを作成して職場に配付した。

(二四) 昭和五六年八月二四日、田端技術部長、水嶋管理部長らは、小川と面談を重ねて説得を行ったが、やはり小川は態度を変えようとしなかった。

また、この日、小川は、原告に対し、同日付け文書をもって、組合役員選挙で副執行委員長に立候補したことを通知すると共に(前記1の(一五)のとおり、小川は、同年八月の組合役員選挙で副執行委員長候補に立候補した。)、組合員としての権利行使を一切妨げないことを強く要求し、また、組合の執行部及び選挙管理委員会に対しても、同日付け文書をもって、原告に小川の組合員としての権利行使を妨害させないよう申し入れた。

他方、原告は、この日、川越工場の従業員に対し、小川に対する説得の経緯を述べたうえ、浜松出張所では、焼結品について現状の人員での対応は不可能であり、また、ヒートパイプ拡販のための機能強化が必要であることから、ヒートパイプについての知識を有し、焼結品についても相応の知識を持った小川を選任した旨の「小川邦夫君に対する転勤命令の件」と題する文書を配付した。

(二五) 昭和五六年八月二六日、小野常務、田端技術部長、水嶋管理部長、平林第二技術課長は、小川と面談し、配転を拒否することは就業規則の懲戒事由に該当する、懲戒解雇も含めて考えざるを得ない旨警告して、翻意を促したが、小川は、なおも本件配転の撤回を要求した。

ところで、原告は、この日に開催された経営協議会において、組合が本件配転に応じないことによる懲戒解雇の発令を延期するよう要請したのを受け、直ちに懲戒解雇を発令することは控える旨約束した。なお、従前から、原告には、労使間の話合いの場として経営協議会という制度があり、本件配転問題についても、七月三〇日から八月二六日の間に、四回にわたって経営協議会の場で取り上げられ、その際、原告が、本件配転の必要性、小川に対する発令延期と説得の状況、八月一八日付け辞令交付の経緯などを組合に説明していた。

(二六) 昭和五六年八月二七日、原告と組合との事務折衝が行われ、その際、組合は、浜松出張所に人員強化の必要制があることは理解できるし、小川が選ばれた理由についても合理性が認められ、また、二年間の期限を付したことは小川にとって好ましい条件であると考える旨本件配転についての見解を表明すると共に、翌二八日に、組合三役立合いの下で小川との面談の場を持ってもらいたい旨申し入れ、原告はこれを了承した。

(二七) 昭和五六年八月二八日、組合三役立合いの下で、小野常務、田端技術部長、水嶋管理部長、平林第二技術課長と小川との面談が行われ、席上、小川は、本件配転は不法・不当と思うが、懲戒解雇を避けるため、やむを得ず浜松出張所に赴任する、しかし、これは本件配転を承諾するものではなく、第三者機関に判断を委ねるつもりである旨述べ、異議を留めて本件配転に応じることを表明した。

(二八) 昭和五六年九月七日、小川は、浜松出張所に着任したが、その三日後の昭和五六年九月一〇日付けで、埼労委に対し、「本件配置転換は、合理化推進のために労使協調組合の育成・発展を願う会社がその基礎の軟弱さから、再度闘う組合が成立することを恐れ、労使協調路線の批判の中心人物の一人であって、職場での活動を通じて人望を集め、組合役選で毎年高い得票を得ている申立人を職場から排除し、かつ組合からも排除して、反労使協調組合の成立を阻止し、あわよくばそれに壊滅的打撃を与えることを企図したものである。」と主張して、本件配転命令を撤回して原職に復帰させることを求める不当労働行為の救済申立をした。

(二九) 小川は、浜松出張において、ヒートパイプについては、得意先の担当技術者と直接接触し、そこで得た情報を川越工場の技術部に伝達するなどの営業活動を、焼結品については、小口所長の補佐役としての営業活動を、それぞれ行った。なお、小川は、本件再配転までの浜松出張所在勤中、狭山市の自宅に妻子を残し単身生活を送った。

小川は、本件配転に伴い、春日井支部に所属することとなったが、浜松出張所が春日井支部の中心である春日井工場と距離的に遠いこともあって、春日井支部から送付される資料を読んだり、定期大会に参加する程度の組合活動を行ったのみで、川越工場在勤中のような活発な組合活動は行わなかった。また、浜松出張所が春日井工場と距離的に遠いことから、浜松出張所の従業員が春日井支部の役員を務めることは事実上不可能であった。

3  本件再配転について

(証拠略)の全趣旨を総合すると、次の事実が認められ、この認定を覆すに足りる証拠はない。

(一) 東京営業所は、本社の東京営業部に属し、昭和五六年七月当時、所長、女子事務員一名、営業担当四名、他に下部組織である北関東出張所の一名を含む六名で構成され、焼結品、焼結ベントの販売業務を行っていた。

なお、東京営業所の北関東出張所を除く営業担当者は、本件再配転により五名となったが、その後、昭和五九年八月には二名減の三名、昭和六〇年五月には新規採用一名を含む四名となっている。

(二) 昭和五七年三月、原告は、昭和五七年度会社方針を発表し、その中で、昭和五六年度売上額が目標を下回ったため、前記2の(五)の長期計画の見直しを行い、昭和五七年度の売上目標額を約六九億円に減額修正し、また、売上目標額一〇〇億円の達成年度を当初の計画より一年遅らせ昭和六〇年度としたことを明らかにした。

右会社方針には、昭和五六年度会社方針には示されていたヒートパイプの売上目標額の記載がなく、また、ヒートパイプの売上が減少していることについての分析等の記載もなかった。

(三) 昭和五八年三月、原告は、昭和五八年度会社方針を発表し、その中で、昭和五七年度の売上実績額が前年度にも及ばず、長期計画の売上目標額を大きく下回ったため、再び長期計画の見直しを行い、売上目標額一〇〇億円の達成年度を更に一年遅らせて昭和六一年度以降としたうえ、同年度の売上目標額を一〇〇億円を割る九七億五〇〇〇万円に設定したこと、また、この長期計画は特機部門の拡大に重点をおいたことを明らかにした。

右会社方針には、ヒートパイプの売上目標額やヒートパイプの売上が減少していることについての分析等の記載はなかった。

(四) ところで、原告は、販売体制の強化策として、各営業部門の取扱い品目の見直しを行い、本社特機部営業課がモーターポンプの販売に専念するため、従来、同課で扱っていたヒートパイプを、昭和五八年四月から新たに東京営業所で扱うこととし、従来の特機品扱いから焼結ベントと併せて特品扱いとした。

なお、東京営業所の昭和五八年度の販売計画では、売上目標額が焼結品一七億〇八〇〇万円、焼結ベント二五〇〇万円とされていたが、ヒートパイプについては具体的な目標額はなかった。また、東京営業所でのヒートパイプの販売実績は、昭和五五年度、五六年度が二〇万円、五七年度が一〇〇万円、五八年度が一〇万円、五九年度、六〇年度がいずれも零であった。

(五) 昭和五八年四月、営業部監査が行われ、森田東京営業部長が東京営業所の増員を要請し、一名の増員が承認された。

(六) 昭和五八年五月中旬頃、原告は、同年度の定期人事異動の準備を開始し、同年七月頃から具体的な検討に入ったが、これに併せて、前記2の(二一)に記載した浜松出張所での二年間の勤務期間経過後は狭山市所在の自宅から通勤できる事業所に配属する旨の小川との約束に基づく検討も行った。

(七) ところで、この人事異動に際して、川越工場からは係長職一名の増員要請が出されたのみであった。なお、川越工場では、昭和五七年七月、同年三月に大学の動力機械工学科を卒業し新採用された森谷徹が、また、昭和五八年五月、同年三月に大学の機械工学科を卒業し新採用された荒井正美が、いずれも技術部第二技術課に配属され、複合材の材料開発やその製品に関する研究開発の業務に携わっていた。

(八) 昭和五八年七月二〇日頃、亀田人事部長と森田東京営業部長が小川の配属先について協議し、自宅から通勤できる事業所に配属する旨の小川との約束を履行するためには、川越工場か、自宅から片道一時間で通勤できる距離にある本社或いは東京営業所に配属する以外にないところ、右(七)のとおり、川越工場からは係長職一名の増員要請が出されているだけなのに対して、前記(五)のとおり、東京営業所では営業担当者一名の増員が要請されていたことから、小川を東京営業所に配属することとし、その旨を決定した。

(九) 昭和五八年八月一七日、原告は、常勤役員会で、昭和五八年度の人事異動を決定し、翌一八日、異動予定者に対して一斉に内示した。

原告は、この人事異動で、前記2の(一一)の本件配転時の人選に際して候補者の一人に挙がっていた青山(その後、「大河原」と改姓していた。)を浜松出張所の小川の後任に充てた。青山は、昭和五七年四月以降、川越工場の焼結製造部製造課製造一係に所属していた。

(一〇) 昭和五八年八月二四日、原告は、人事異動の実施に先立ち、組合及び春日井支部と、それぞれ個別に経営協議会を開催し、本件再配転を含む昭和五八年度定期人事異動について協議したが、右両組合から特段の異議はなかった。

そして、この日、同月二五日付けの異動辞令が異動対象者に対して一斉に交付された。

(一一) 昭和五八年八月二八日、小川は、本件再配転は不当な本件配転を合理化し、加えて、小川の組合活動を制限しようとする意図の下にされたもので、今までどおり本件再配転の不当性について争い続けざるを得ない旨の文書を原告に提出し、異議を留めて本件再配転に応じることを明らかにした。

(一二) 小川は、昭和五八年九月五日、東京営業所に着任したが、翌九月六日には、埼労委に対し、本件再配転について、本件配転についての不当労働行為の救済申立に追加して救済を求める旨の変更申立をした。

小川は、東京営業所において、焼結ベントとヒートパイプの販売を担当し、焼結ベントやヒートパイプについて、従来の得意先への訪問、カタログの発送、新規開拓のための訪問、以前に試作品を納入したことのある取引先のフォローなどの営業活動を行っている。

二  本件配転の合理性について

1  本件配転の業務上の必要性について

(一) 一般に、使用者は、その経営判断に基づいて、企業組織の改変、内容及び配置すべき労働者の数などを決定することができるが、具体的に誰を配置すべきかの人選についても、不当な動機・目的をもってされるとか又は労働者に対して通常甘受すべき程度を著しく越える不利益を負わせるなどの特段の事情がない限り、業務上の必要性に応じ、その裁量に基づいて決定することができるものというべきである。この場合には、余人をもっては容易に代え難いといった高度の必要性がなくとも、労働力の適正配置、業務の能率増進、労働者の能力開発、勤労意欲の高揚、業務運営の円滑化などの企業の合理的運営に寄与する点が認められれば足りるものと解すべきである。

(二) そこで、まず、浜松出張所における増員の必要性について判断する。

(1) 〈1〉浜松出張所の売上実績及び全社売上に占める割合が、昭和五〇年度の一億三〇〇〇万円、四・三パーセントから五五年度の四億三〇〇〇万円、八・二パーセントへと年々増加したことに伴って、小口所長と女子事務員は、本来の業務に加えて外注管理などの業務に追われ、公休出勤や長時間残業が常態となっており、小口所長の場合には残業が一か月に五〇時間から八〇時間に及んでいたこと、〈2〉長期計画に先立って昭和五五年一二月に策定された浜松出張所の売上計画によると、五五年度の実績額四億三〇〇〇万円を五九年度には二倍以上の一〇億六〇〇〇万円に拡大することが目標とされていたことなどの前記認定の事実に照らすと、本件配転当時、浜松出張所においては、小口所長と女子事務員の二名のみでは、増加する業務を処理し新たに策定された売上計画を達成することは困難な状況にあって、少なくとも営業担当者一名を増員する必要性があったものと認められる。

(2) 更に、〈1〉長期計画では、全社におけるヒートパイプの売上額を昭和五九年度には二億五〇〇〇万円(総売上に占める割合は二・五パーセントである。)に拡大することが目標とされており、また、長期計画に先立って昭和五五年一二月に策定された浜松出張所の売上計画では、ヒートパイプの売上額を昭和五九年度には二億円(全社におけるヒートパイプの売上目標額の八割をしめる。)に拡大することが目標とされていたこと、〈2〉浜松出張所は、鈴木自工などのヒートパイプの主要取引先を所管していたが、小口所長が春日井工場の焼結製造部門出身でヒートパイプに関する技術的知識がなかったため、ヒートパイプの技術的側面について対応する必要がある場合には、その都度、川越工場の技術部第二技術課から斉藤係長が同出張所へ赴いていたこと、という前記認定の事実に加えて、(証拠略)によれば、〈3〉ヒートパイプの拡販のためには、採用される製品の設計、試作の段階から、得意先の技術担当者と密接に接触する必要があり、バイク「スワニィー」のオートチョーク機構用にヒートパイプが採用された鈴木自工についても、二輪車業界では一つのモデルの寿命が二年程しかないことから、ヒートパイプの量産納入を継続するためには、「スワニィー」の次のモデルでも採用されるよう、技術担当者と密接に接触する必要があったこと、〈4〉そのため、前記〈2〉のように、必要の都度、斉藤係長が浜松出張所へ赴くという対応では、得意先の技術担当者との接触が不充分になりがちであったことが認められる。

(3) 右(2)の事実によれば、長期計画では、昭和五九年度の全社におけるヒートパイプの売上額を総売上の二・五パーセントに当たる二億五〇〇〇万円にまで拡大する目標を掲げ、そのうち八割に当たる二億円を浜松出張所で売り上げることを目標にしていたのであるから、このような長期計画におけるヒートパイプの売上目標を達成するためには、浜松出張所におけるヒートパイプの拡販が極めて重要な意味を持っていたことが明らかである。そして、ヒートパイプの拡販のためには、採用される製品の設計、試作の段階から、得意先の技術担当者と密接に接触する必要があり、バイク「スワニィー」のオートチョーク機構用にヒートパイプが採用された鈴木自工についても、量産納入を継続するためには、技術担当者と密接に接触する必要があったところ、ヒートパイプに関する技術的知識のない小口所長に代って、その都度、川越工場の斉藤係長が浜松出張所へ赴くというような対応では、得意先の技術担当者との接触が不充分になりがちであったというのであるから、長期計画におけるヒートパイプの売上目標を達成するためには、増員される営業担当者は、ヒートパイプについて得意先と技術的な対応ができる程度の知識・経験を有する必要があったというべきである。

(4) また、前記認定のとおり、浜松出張所では焼結品が売上の九割前後を占めていたのであるから、増員される営業担当者は、ヒートパイプについて得意先と技術的な対応ができる程度の知識・経験を有するだけでなく、同時に、焼結品に関しても小口所長を補佐して活動ができる程度の知識を有している必要があったことも容易に首肯されるところである。

(5) 以上のとおりであって、本件配転当時、浜松出張所においては、増加する業務を処理し新たに策定された売上目標を達成するために、ヒートパイプについて得意先と技術的な対応ができる程度の知識・経験を有し、かつ、焼結品に関しても小口所長を補佐して活動ができる程度の知識を有する営業担当者を、少なくとも一名増員する必要性があったものということができる。

(三) 次に、原告が浜松出張所への配転の対象者として小川を人選したことの合理性について判断する。

(1) 原告が浜松出張所への配転の対象者として小川を人選した経緯は、前記一の2の(一一)に認定したとおりであって、ヒートパイプについて得意先と技術的な対応ができる程度の知識・経験を有し、かつ、焼結品に関しても小口所長を補佐して活動ができる程度の知識を有する者という人選基準で検討したところ、ヒートパイプに関する知識・経験を有する者として候補に挙がった五名の中で、小川がヒートパイプに関する知識・取扱い経験共に最も豊富と認められ、また、焼結品についても小口所長を補佐して営業活動ができる程度の相応の知識を有していると認められたことから、小川を人選したというものである。

(2) そして、本件配転当時、浜松出張所においては、ヒートパイプについて得意先と技術的な対応ができる程度の知識・経験を有し、かつ、焼結品に関しても小口所長を補佐して活動ができる程度の知識を有する営業担当者を、少なくとも一名増員する必要性があったことは、前記(二)に認定・説示したとおりであるから、このような要件を満たす者として小川を浜松出張所に配属することには、業務の能率増進や業務運営の円滑化などの企業の合理的運営に寄与する点があることは否定できず、したがって、原告が右(1)のような経緯で小川を人選したことには充分な合理性があるというべきである。

(証拠略)によれば、本件配転以降、斉藤係長の浜松出張所への出張が大幅に減少したことが認められるが、この事実によっても、浜松出張所における増員の必要及び小川を人選したことの合理性が裏付けられるところである。

(四) 以上の点について、被告は、〈1〉昭和五六年一月一九日の役員会で承認された同年度売上計画では、ヒートパイプの売上計画額が八〇〇〇万円とされているのに、同年三月の会社方針ではそれが六五〇〇万円と一五〇〇万円減少していること、昭和五六年度会社方針には、ヒートパイプの拡販に関する具体的な記述が存在しないこと、昭和五五年一二月の当初計画では、浜松出張所における昭和五七年度のヒートパイプ売上目標が一億二三〇〇万円とされていたのが、昭和五六年八月には売上見込みが七二〇〇万円とされ、しかも、昭和五七年度の売上実績は一一〇〇万円と昭和五六年度の五八〇〇万円に比べて大幅に減少していること、昭和五七年度会社方針には、ヒートパイプの売上目標額は掲げられておらず、その理由の記載もないことなどに鑑みると、本件配転当時、原告がヒートパイプの拡販にさまで力を入れていたとは認め難い、〈2〉また、焼結品が売上の九割前後を占める浜松出張所の実態や、本件増員に関する稟議書作成の経緯からみて、ヒートパイプに関する知識・経験を人選の最重点とすることの合理性をにわかに首肯することができない、〈3〉更に、原告は、浜松出張所における小川の後任として、本件配転の際に候補に挙がった者の中でヒートパイプに関する経験が一番短い青山を人選している、〈4〉以上の諸点に照らすと、本件配転当時、原告が小川を最適任であるとして人選したことの合理性について疑問なしとしない旨主張する。

しかしながら、次のとおり、右主張は採用することができない。

(1) 原告が、本件配転当時、ヒートパイプの拡販にさまで力を入れていたとは認め難いとする点について

まず、被告が、昭和五六年一月一九日の役員会で承認された同年度売上計画では、ヒートパイプの売上計画額が八〇〇〇万円とされているのに、同年三月の会社方針ではそれが六五〇〇万円と一五〇〇万円減少していると指摘している点についてみるに、(証拠略)(〈証拠略〉)、及び弁論の全趣旨によれば、昭和五六年一月一九日に承認された長期計画中の各年度の売上計画は、その時点までの売上実績見込みをベースに策定されたものであること、しかし、その約二か月後の昭和五六年度会社方針を策定する時点では、昭和五五年度の売上実績見込みが長期計画において見込んだ数字に達しない見通しとなったので、長期計画中の昭和五六年度の総売上目標額である六五億円を四億円下方修正して六一億円としたこと、したがって、修正の対象は全製品の売上目標額に及んでおり、焼結品については五三億五〇〇〇万円から五一億七〇〇〇万円に、特機については一〇億円(そのうちヒートパイプは八〇〇〇万円)から八億五〇〇〇万円(そのうちヒートパイプは六五〇〇万円)に、特品については一億五〇〇〇万円から八〇〇〇万円に、それぞれ減額修正していることが認められる。このように、昭和五六年度会社方針では、全製品の各売上目標を長期計画の数字より減額修正しているのであって、ひとりヒートパイプのみを減額修正したものではないから、被告が指摘する右のような事実があるからといって、原告が、本件配転当時、ヒートパイプの拡販にさまで力を入れていたとは認め難いとすることの論拠とはなし得ない。

次に、被告が、昭和五六年度会社方針には、ヒートパイプの拡販に関する具体的な記述が存在しないと指摘している点についてみるに、(証拠略)によれば、昭和五六年度会社方針には、確かに、「ヒートパイプの拡販に努める」というようなヒートパイプの拡販に関する具体的な記述は記載されていないが、六五〇〇万円(継続品五四〇〇万円、新製品一一〇〇万円)というヒートパイプの具体的な売上目標額及び特機品全体で対前年度比一三三パーセントの売上となることが記載されていることが認められるから、被告が指摘する右のような事実があるからといって、原告が、本件配転当時、ヒートパイプの拡販にさまで力を入れていたとは認め難いとすることの論拠とはなし得ない。

更に、被告が、昭和五五年一二月の当初計画では、浜松出張所における昭和五七年度のヒートパイプ売上目標が一億二三〇〇万円とされていたのが、昭和五六年八月には売上見込みが七二〇〇万円とされ、しかも、昭和五七年度の売上実績は一一〇〇万円と昭和五六年度の五八〇〇万円に比べて大幅に減少していると指摘している点についてみるに、(証拠略)によれば、昭和五七年度会社方針では、昭和五六年度の売上実績額が目標を下回ったため、前記の昭和五六年度会社方針の場合と同様に、長期計画に比べて売上目標を減額修正しており、総売上を七七億円から六九億〇五〇〇万円に、製品別では、焼結品については六〇億円から五七億八五〇〇万円に、特機については一三億円(そのうち、ヒートパイプは一億五〇〇〇万円)から一〇億円(五七年度会社方針にはヒートパイプの具体的目標額の記載はない。)に、特品については四億円から一億二〇〇〇万円に、それぞれ減額修正されていること、昭和五六、五七年度とも売上実績額が会社方針で掲げた目標額に及ばず、殊に五七年度は五六年度の実績額をも下回ったこと、昭和五六年度以降の全社的な業績の伸び悩みの中で、ヒートパイプの主要取引先である鈴木自工についても、「スワニィー」の次のモデルの「ジェンマ」では、エンジンとキャブレターが近接している構造のため、オートチョーク機構用にヒートパイプが採用されず、その結果、浜松出張所では昭和五六年度から五七年度にかけてヒートパイプの売上が大幅に減少したこと、しかし、浜松出張所では、ヒートパイプの売上額の大幅減少後も、拡販努力を放棄したわけではなく、業績を回復するための営業活動を行い、「ジェンマ」の次のモデルである「ハンディ」ではヒートパイプの採用に成功したこと、技術部では、昭和五六年以降も継続してヒートパイプの研究・開発作業を行っていたことが認められる。このように、昭和五六年度以降の売上目標の減額修正や業績の伸び悩みは、ひとり浜松出張所におけるヒートパイプだけではなく、全社かつ全製品について共通の問題であり、また、浜松出張所におけるヒートパイプの販売については、売上額の減少が大幅ではあるものの、主要取引先の鈴木自工で量産納入の継続に失敗するという特有の事情があるほか、売上実績が大幅に減少した後も、浜松出張所ではヒートパイプの拡販活動を継続し、技術部でも研究・開発を続けていたのであるから、被告が指摘する右のような事実をして、原告が、本件配転当時、ヒートパイプの拡販にさまで力を入れていたとは認め難いとすることの論拠とはなし難い。

最後に、被告が、昭和五七年度会社方針には、ヒートパイプの売上目標額は掲げておらず、その理由の記載もないと指摘している点についてみるに、(証拠略)によれば、ヒートパイプ販売の主要な役割を担っていた浜松出張所におけるヒートパイプの売上が大幅に減少したことから、昭和五七年度会社方針では特機の内数としてヒートパイプの売上目標額を特に掲記することはしなかったことが認められる。しかしながら、前記のとおり、売上額が大幅に減少した後も、浜松出張所ではヒートパイプの拡販活動を継続し、技術部でも研究・開発を継続していたのであるから、被告が指摘する右のような事実があるからといって、原告が、本件配転当時、ヒートパイプの拡販にさまで力を入れていたとは認め難いとすることはできない。

以上、検討したように、原告が、本件配転当時、ヒートパイプの拡販にさまで力を入れていたとは認め難い旨の被告の主張は採用することができない。

(2) ヒートパイプに関する知識・経験を人選の最重点とするこの合理性についてにわかに首肯することができないとする点について

まず、被告が指摘する浜松出張所の売上の実態についてみるに、前記認定のとおり、浜松出張所では焼結品が売上の九割前後を占めており、このような売上の実態からすると、原告がヒートパイプの知識・経験に重点をおいた人選をしたことが、一見、不自然であると感じられなくはない。しかしながら、前記(三)に認定・説示したとおり、長期計画におけるヒートパイプの売上目標を達成するためには、ヒートパイプについて得意先と技術的な対応ができる程度の知識・経験を有する者を浜松出張所に配属する必要があり、このような要件を満たす者を浜松出張所に配属することには、業務の能率増進や業務運営の円滑化などの企業の合理的運営に寄与する点があると認められるから、浜松出張所では焼結品が売上の九割前後を占めているからといって、原告がヒートパイプの知識・経験に重点をおいた人選をしたことの合理性が左右されるわけではない。

次に、被告が指摘する増員に関する稟議書作成の経緯についてみるに、成立に争いがない(証拠略)によれば、〈1〉矢頭名古屋営業部長代理は、昭和五六年一月中頃、浜松出張所の一員増員がまだ正式決定されていなかったことから、本社に増員を求める稟議書を提出することを考え、浜松出張所の小口所長に対し、その下書を起案するよう指示したこと、〈2〉小口所長は、同月下旬頃、「増員の件」と題する稟議書の下書を起案して、矢頭部長代理に提出したこと、〈3〉右稟議書の下書には、「起案要旨」欄に、浜松出張所の現状やできるだけ早く一名を増員して欲しい旨が、「意見」欄に、工業高校(機械又は電機)卒業程度以上の人を望む、浜松出張所は春日井工場の製品が多いのでできれば春日井工場の現役が最適と考える旨が、それぞれ記載されていたが、ヒートパイプの拡販についてなんら記載されていなかったこと、〈4〉矢頭部長代理は、同年二月初め頃、右小口所長が作成した下書を参考にして、「営業部員(浜松出張所)一名増員の件」と題する稟議書を起案したうえ、小口所長にその写しを手渡し、趣旨を説明したこと、〈5〉右稟議書の「起案要旨」欄には、一名の増員が必要である旨記載されていたが、小口所長が起案した下書と同じくヒートパイプの拡販についてはなんら記載されておらず、また、下書の「意見」欄にあった春日井工場の現役が最適と考える旨の記載は削除されており、人選の条件に関する記載はされていなかったこと、〈6〉このように、矢頭部長代理が小口所長が起案した下書にあった春日井工場の現役が最適と考える旨の記載を削除したのは、現地の担当者である小口所長は、浜松出張所で扱っている製品は春日井工場の焼結品が多いことから、春日井工場の現役から補充するのが最適と単純に考えたのに対して、小口所長の上司で浜松地区の営業の責任者であると共に中京、関西地区の営業活動を統轄している矢頭部長代理は、浜松出張所が原告におけるヒートパイプの売上額の八割以上を占めヒートパイプの営業活動の拠点であることを考慮し、また、小口所長にヒートパイプの知識・経験がないことを踏まえ、焼結品と併せてヒートパイプについても知識・経験を有する従業員の補充が必要と判断したからであること、〈7〉矢頭部長代理が起案した稟議書の「起案要旨」欄の下段二行には、「具体的な人選(人名を出す)秘→2/14までに」、「新聞の公告については見積を取る毎日、朝日、読売、静岡」と記載されているが、これは、小口所長が、矢頭部長代理からこの稟議書の写しを手渡され、趣旨説明を受けた際、補充の方法について心当たりがあるなら考えておくようにといわれたことから、その後、心覚えのため書き込んだものであること、〈8〉矢頭部長代理は、同年二月五日頃、本社の亀田人事部長から、浜松出張所の増員が正式決定された旨連絡を受けたことから、結局、自分が起案した稟議書を本社に提出しないで終ったこと、以上の事実が認められる(なお、〈証拠略〉、撮影物件が稟議書の用紙であることに争いのない〈証拠略〉によれば、右増員に関する稟議書の存在が明らかになったのは、小川が、昭和五七年五月三日、浜松出張所のロッカーに小口所長が保管していた稟議書の写しを無断で写真に撮影して埼労委に証拠として提出したことによることが認められる。)。

右事実によれば、小口所長が起案した稟議書の下書には春日井工場の現役が最適と考える旨記載されているが、これは、現地の担当者である小口所長が、浜松出張所で扱っている製品は春日井工場の焼結品が多いため、同工場の現役から補充するのが最適であると単純に考えたのに対して、小口所長の上司である矢頭部長代理は、浜松出張所がヒートパイプの営業活動の拠点であることなどを考慮して、ヒートパイプについても知識・経験を有する従業員の補充が必要と判断し、自らが起案した稟議書では、春日井工場の現役が最適と考える旨の記載を削除したのである。そうすると、小口所長が起案した稟議書の下書に春日井工場の現役が最適と考える旨記載されているからといって、経営判断として、ヒートパイプに関する知識・経験を人選の重点とすることの合理性が左右されるわけではない。また、矢頭部長代理が起案した稟議書には、ヒートパイプの拡販についてなんら記載されていないが、(証拠略)によれば、右稟議書では、昭和五六年度以降、二割以上の拡販を達成するためには、各得意先の技術、設計部門との接触を増やして、その需要を先取りする必要があり、そのためには男子一名の増員が必要である旨増員の必要性を説明しているのみで、ヒートパイプや焼結品などの具体的製品名を挙げて増員の必要性を説明しているわけではないことが認められるから、矢頭部長代理が起案した稟議書にヒートパイプの拡販について具体的な記載がないことをもって、ヒートパイプに関する知識・経験を人選の重点とすることの合理性を左右するものとはいえない。なお、矢頭部長代理が起案した稟議書の「起案要旨」欄の下段二行には、「具体的な人選(人名を出す)秘→2/14までに」「新聞の広告については見積を取る 毎日、朝日、読売、静岡」と記載されているが、これは、小口所長が独自の考えで記載したものに過ぎないから、右事実によって、直ちに、ヒートパイプに関する知識・経験を人選の重点とすることの合理性が左右されることにはならない。

以上、検討したように、被告が指摘する焼結品が売上の九割前後を占める浜松出張所の実態や本件増員に関する稟議書作成の経緯を問題とすることによって、ヒートパイプに関する知識・経験を人選の重点とすることの合理性に疑問を呈するのは相当でないというべきである。

(3) 浜松出張所における小川の後任について

原告が、浜松出張所における小川の後任として、本件配転の際に候補に挙がった者の中でヒートパイプに関する経験が一番短い青山を人選したことは、前記一の3の(九)で認定したとおりである。しかしながら、青山は、もともと、本件配転の際に候補の一人に挙げられていた者で、浜松出張所の要員としての適格に欠けるところがあるわけではないから、浜松出張所における小川の後任としてヒートパイプに関する経験が一番短い青山を充てたからといって、それが遡って、本件配転の際に小川を人選したことの合理性が否定されることにはならない。

(4) 右に検討したように、被告が指摘する諸点は、いずれも本件配転の際に小川を人選したことの合理性を左右するものではなく、前記被告の主張は採用することができない。

(五) 以上に認定・説示したとおり、本件配転当時、浜松出張所においては、少なくとも営業担当者一名を増員する必要性があり、しかも、小川を人選したことには充分な合理性があるから、本件配転は業務上の必要性が肯定されるというべきである。

2  本件配転の不当労働行為該当性について

(一) 次に、本件配転が、原告の不当労働行為意思に基づいて、つまり、小川が正当な労働組合活動をしたことのゆえに同人に対する不利益な取扱いとして行われたものと認められるかどうかについて検討する。

(二) 本件配転に至るまでの労使関係をみるに、〈1〉原告が、昭和四八年四月、予め設定したスケジュールに従い各種の争議行為を反復、展開する当時の組合幹部の姿勢を闘争至上主義と非難し、労使一体となった生産性向上への取組み強化の必要性などを訴える「全従業員に訴える」と題する文書を配付し、その後も、折りをみては、社内報などでストのない労使関係や労使協力の必要性を従業員に訴えたこと、〈2〉昭和四九年一月、岩満の社長昇格以降、原告が、年間総労働時間の短縮に伴う一日の労働時間延長等を内容とする就業規則の変更、いわゆる「カンバン方式」の導入、得意先に応じた休日編成の実施や、夏季と冬季の一時金への成績査定の導入の提案、一時金における欠務評価の導入の提案など各種の施策を推進したこと、〈3〉右一連の施策に対して、旧執行部が、ワッペン着用、寄せ書の掲示、時間外労働の拒否、ストライキ等の反対闘争を行ったほか、変更された就業規則に基づく就労義務が存しないことの確認を求めて裁判所に提訴し或いは二回にわたり埼労委に救済申立を行ったりしたこと、〈4〉岩満が、原告の労使事情について、業界誌「素形材」の昭和五九年一一月二〇日号において、「絶えず激突している労使関係を正常化しない限り、東京焼結金属の発展はあり得ない……そこで、……長い労働運動の私の経験を買っての派遣であった。」「私が東京焼結金属へ着任の目的であった階級的労働運動を排除して、健全で、建設的な労使関係を作り上げていくと云うことは、着任以来五年を経て、ほぼ出来上がった。」などと述べていることは、前記一の1で認定したとおりである。

右事実によれば、原告と旧執行部当時の組合との間には数多くの対立、抗争があり、原告としては、非協力的な立場を取り続ける組合の態度に不信を抱き、旧執行部を快く思っていなかったであろうことは否定し難いところである。しかし、このことは、組合そのもの或いはこれをリードする旧執行部に対するものであって、岩満の発言もこの範囲を越えるものでないことは、その内容自体に照らして明らかである。したがって、右事実からは、仮に主導権を有していた当時の旧執行部に対する原告の嫌悪の情が推進されることがあっても、旧執行部を構成する個々の役員に対する嫌悪の情まで推認されるものではなく、まして、執行部の主導権を失った後の旧執行部派或いはこれに属する役員経験者の一人である小川に対する嫌悪の情まで推認することは困難である。旧執行部派とか或いはこれに属する役員経験者といっても、原告の立場からみれば、所詮は、組合内部における主導権争いの問題であるという側面があることも見逃すことはできない。

(三) もっとも、執行部の主導権を失った後の旧執行部派がどのような活動をしたかによっては、旧執行部派或いはこれに属する役員経験者に対する原告の嫌悪の情が推認されることもあり得ないではないので、以下この点についてみることとする。旧執行部派が、プレス部門におけるラップ時間の解消問題や完全二交替制勤務の実施問題について原告の提案に対する反対運動を展開したこと、右ラップ時間の解消が、春日井工場では昭和五四年五月の提案から約三か月で実現したのに対して、川越工場では同じ昭和五四年五月の提案から約一年七か月後にようやく実現したことは、前記認定のとおりであり、右事実によれば、川越工場でラップ時間の解消が春日井工場に比べて大幅に遅れたことについては、旧執行部派の反対運動が影響したかのように思われないではない。

しかしながら、(証拠略)によれば、川越工場では、電車通勤の従業員が多いことから、終電車に間に合うようにⅡ勤(遅勤)の終業時刻を早めて欲しい旨の要望が強かったという同工場固有の事情があり、このような事情が、大部分の従業員が自動車通勤をしている春日井工場に比べてラップ時間の解消が大幅に遅れる背景となったことが認められる。したがって、川越工場でラップ時間の解消が大幅に遅れたのは、必ずしも旧執行部派の反対運動の影響とはいえないから、旧執行部派がラップ時間解消に対する反対運動を行ったなどの前記事実があるからといって、原告が主導権を失った後の旧執行部派を嫌悪していたものと推認することはできない。

(四) 次に、小川が旧執行部ないし旧執行部派において占めていた地位についてみるに、〈1〉旧執行部では、昭和四五年から八年にわたって鶴見が執行委員長を務めたこと、〈2〉小川は、旧執行部において、昭和四八年から執行委員を三期、昭和五一年から書記長を二期、それぞれ務めたこと、〈3〉小川は、旧執行部派が組合執行部の主導権を失って以降、昭和五四年に執行委員に当選しほか、昭和五五年には書記長に立候補して、四〇パーセント強の得票を得たものの落選し、昭和五六年も、本件配転問題が起こるまでは書記長に立候補する予定であったこと、〈4〉小川は、昭和五五年九月以降、鶴見の後継者として職場新聞「こぶし」の編集委員会代表を務めたことは、前記認定のとおりである。

右事実によれば、旧執行部では、昭和四五年から八年にわたって執行委員長を務めた鶴見が中心的活動家としてその指導的立場にあり、これに対して、小川は、昭和四八年から執行委員を三期、昭和五一年から書記長を二期、それぞれ務めたものの、執行委員長は一度も務めたことがないし、旧執行部が組合の主導権を失った後においては、執行委員に一回当選したほか、書記長に立候補し或いは立候補しようとしたに留まるから、昭和五九年九月以降、鶴見の後継者として職場新聞「こぶし」の編集委員会代表を務めたことを考慮しても、小川は、旧執行部派の主要メンバーの一員ではあっても、その中心的存在であったとまで認めるのは困難である。また、原告が小川を旧執行部派の中心的存在であると認識していたこと及び組合活動に関連して原告と旧執行部派又はそのメンバーの一員である小川との間でなんらかのトラブルがあったことを窺わせる事情もない。

(五) 以上、(二)ないし(四)において検討した点に、前記1で詳述したとおり、本件配転には業務上の必要性が認められることを併せ勘案すると、本件配転が不当労働行為意思に基づいて行われたものと認めることはできない。

(六) この点について、被告は、〈1〉旧執行部派は、組合の主導権を失った後も、組合内部で一定の影響力を保持して活発な組合活動を展開し、ラップ時間の速やかな解消を妨げ、更に、完全二交替制勤務問題についても反対運動を展開していた、〈2〉このため、原告が、完全二交替制勤務の実現を妨げるものとして、旧執行部派に対する敵対意識を一層強くしたであろうことは推認に難くなく、また、原告が、「こぶし」の編集代表を務め、役員選挙に毎回立候補するなど旧執行部派の中心となって活動している小川に着目し、嫌悪していたであろうことは容易に推測し得る、〈3〉そうすると、小川を人選したことの合理性に疑問を表せざるを得ないことからみて、本件配転は、小川のヒートパイプの経験が長いことに藉口して、あえて小川を人選して旧執行部派の中心的存在である同人を川越工場から排除し、その影響力を削ぐために行われたものと判断せざるを得ない旨主張する。

しかしながら、右主張は、前記(二)ないし(五)において認定・説示したところは、その前提たる事実を異にするか又は少なからず飛躍があって、採用し難いことは明らかである。

(七) 以上の検討によれば、本件配転が労働組合法七条一号所定の不当労働行為に該当するということはできない。

三  本件再配転の合理性について

1  本件再配転の業務上の必要性について

(一) 使用者は、その経営判断に基づいて、企業組織の改変、内容及び配置すべき労働者の数などを決定することができるが、具体的に誰を配置すべきかの人選についても、不当な動機・目的をもってされるなどの特段の事情がない限り、業務上の必要に応じ、その裁量に基づいて決定することができるもので、この場合には、余人をもって容易に代え難いといった高度の必要性がなくとも、労働者の適正配置、業務の能率増進、労働者の能力開発、勤務意欲の高揚、業務運営の円滑化など企業の合理的運営に寄与する点が認められれば足りると解すべきことは、前記二の1の(一)に説示したとおりである。

(二) そこで、東京営業所における増員の必要性について検討する。

(1) まず、原告の経営状況についてみるに、〈1〉昭和五七年三月、原告は、昭和五七年度会社方針を発表し、昭和五六年度売上額が目標を下回ったため、長期計画の見直しを行い、昭和五七年度の売上目標額を約六九億円に減額修正したほか、売上目標額一〇〇億円の達成年度を当初の計画より一年遅らせ昭和六〇年度としたことを明らかにしたこと、〈2〉昭和五八年三月、原告は、昭和五八年度会社方針を発表し、その中で、昭和五七年度の売上実績額が前年度にも及ばず、長期計画の売上目標額を大きく下回ったため、再び長期計画の見直しを行い、売上目標額一〇〇億円の達成年度を更に一年遅らせて昭和六一年度以降としたうえ、同年度の売上目標額を一〇〇億円を割る九七億五〇〇〇万円に設定し、また、この長期計画は特機部門の拡大に重点をおいたことを明らかにしたことは、前記一の3に認定したとおりである。

右のように、原告は、昭和五六年度以降、業績が伸び悩み、長期計画を大幅に見直さざるを得ない状況に陥った。

(2) 右(1)のように、原告は、昭和五六年度以降、業績が伸び悩んだが、そのような状況下での東京営業所の営業実績をみるに、(証拠略)によれば、昭和五三年度から五七年度にかけての東京営業所における売上実績の推移は、五三年度は、焼結品一四億〇五〇〇万円、焼結ベント八〇〇万円、合計一四億一三〇〇万円、五四年度は、焼結品一五億五八〇〇万円、焼結ベント一二〇〇万円、合計一五億七〇〇〇万円、五五年度は、焼結品一八億〇八〇〇万円、焼結ベント一四〇〇万円、合計一八億二二〇〇万円、五六年度は、焼結品一八億三一〇〇万円、焼結ベント一三〇〇万円、合計一八億四四〇〇万円、五七年度は、焼結品一六億一六〇〇万円、焼結ベント二〇〇〇万円、合計一六億三六〇〇万円であることが認められ、右事実によれば、昭和五七年度は、焼結品の落込みがひどく、昭和五三年度以降順調に伸びてきた売上が、一転して前年度を二億円強も下回ったことが認められる。

(3) 右(2)のような昭和五七年度の売上実績を踏まえて策定された東京営業所の昭和五八年度販売計画では、売上目標額が、焼結品一七億〇八〇〇万円、焼結ベント二五〇〇万円とされていた(ヒートパイプについては具体的な目標額はなかった。)ことは、前記一の3の(四)に認定したとおりである。そして、(証拠略)によれば、〈1〉焼結品について、右五八年度販売計画の売上目標額(前年度実績額比で約五・七パーセント増となる。)を達成するためには、拡販活動を積極的に進め、新規受注を拡大していく必要があったが、焼結品の主要取引先では、合理化策として組み付け部品の在庫を極端に切り詰めているため、使用前一日から、一・五日分の余裕しかなく、毎日の指示どおりに納入できないと、すぐに欠品が生じ、ラインストップが発生するという状況であったこと、〈2〉このような欠品の事態を避けるためには、納期管理を徹底するほかないことから、営業担当者は、川越工場に赴いて納期管理業務に従事することが必然的に多くなり、本来の営業活動に充分な力を注ぐことができないのが実情であったこと、〈3〉焼結ベントについても、商品の性質上、継続して大量の受注は望めないことから、前記五八年度販売計画の売上目標額(前年度実績額比で二五パーセント増となる。)を達成するためには、これまで以上に、新規開拓のための拡販活動を積極的に進め、得意先を増やす必要があったこと、〈4〉殊に、焼結ベントのうち、原告が新たに開発した細孔ベントは、今後大いに期待できる商品で、営業体制を強化して拡販活動により一層の力を入れる必要があったこと、〈5〉昭和五八年四月以降、特機部営業課から引き継いだヒートパイプについては、東京地区での実績がないため前記五八年度販売計画に具体的な売上目標額は定められていないものの、これまで営業を担当していた特機部営業課が、数社に試作品を納入するなどの営業活動を行ってきたことから、右数社の洗い直しのほか、新規市場の開拓など拡販の基礎固めを行う必要があったこと、以上の事実が認められる。

(4) 右(3)の事実によれば、昭和五八年の本件再配転当時、東京営業所では、昭和五七年度に落込みがひどかった焼結品の売上を回復するため、拡販活動を積極的に進めていく必要があったところ、主要取引先が合理化策として組み付け部品の在庫を極端に切り詰めていたことから、営業担当者は、納期管理を徹底する必要があり、その業務に時間を割かれて、本来の営業活動に充分な力を注ぐことができなかったというのである。加えて、焼結ベントについても、商品の性質上、継続して大量の受注は望めないことから、新規開拓のための拡販活動を積極的に進める必要があったほか、特機部営業課から新たに引き継いだヒートパイプについても、拡販の基礎固めを行う必要があったというのであるから、本件再配転当時、東京営業所には、全体の営業活動の強化のため、少なくとも営業担当者一名を増員する必要性があったというべきである。

(三) この点について、被告は、〈1〉ヒートパイプは重点販売計画製品とは認め難くなっており、東京営業所においては、ヒートパイプの具体的販売目標も存在せず、その売上実績も、昭和五八年度は一〇万円、五九年度、六〇年度はいずれも零であること、〈2〉東京営業所の営業担当者の人員が、昭和五八年には一名増員され五名、五九年には二名減の三名、六〇年には新規採用者一名を含む四名と毎年変動していること、〈3〉森田東京営業部長が、小川に対し、すぐに売上に寄与するような仕事ではないので気長な気持で業務に当たって欲しい旨述べていることからすれば、東京営業所に増員の必要性があったとは認め難い旨主張する。

しかしながら、次のとおり、右主張は採用することができない。

(1) 被告は、ヒートパイプは重点販売計画製品とは認め難くなっている旨指摘するが、前記(二)の(4)に説示したように、単にヒートパイプだけではなく、東京営業所全体の営業活動強化という観点から、東京営業所における営業担当者の増員が必要とされたのであるから、右指摘のような事実によって、東京営業所における増員の必要性が左右されることはない。

(2) 営業担当者数の変動について

いずれも成立に争いがない(証拠・人証略)によれば、〈1〉昭和五八年から六〇年までの東京営業所に所属する営業担当者の推移は、五八年八月時点で、小松原、山根、三石、鈴木、小川の五名、ほかに下部組織の北関東出張所に水野一名、五九年八月時点で、山根、三石、小川の三名、ほかに北関東出張所に峰岸一名、六〇年五月時点で、山根、三石、伊藤、小川の四名、ほかに北関東出張所に峰岸一名であること、〈2〉昭和五九年八月、小松原と鈴木の両名が東京営業所から川越工場に転出し、この異動で、東京営業所は営業担当者が二名減員となったことから、従前の業務分担を大幅に変更したこと、〈3〉まず、小松原が担当していた主力得意先を全て北関東出張所の扱いに変更したが、これは、同出張所は取引額が減少傾向にあり、従前、月商二〇〇〇万円程度であったものが、昭和五九年八月当時には月商一〇〇〇万円程度にまで減少し、更に引き続き減少することが避け難い見通しであったことから、存続の可否も含めて検討されたが、取引額が減少しているとはいえ、創業当時からの古い取引先も多い同出張所を廃止することは取引の信義上好ましくないと判断され、結局、従前小松原が担当していた主力得意先を全て北関東出張所の扱いに変更して同出張所を存続させることとしたこと、〈4〉次に、山根は、昭和五八年八月の異動で川越工場の製品係長から配属された者であるが、営業経験がなかったことから、暫定的に三石とペアで営業活動に当たっていたのを一本立ちさせてペアを解消すると共に、翌年五月に新人一人を配属して対処することとし、新人が配属されるまでのつなぎとして、本来、特定の取引先を担当しない佐藤東京営業所長が暫定的に取引先を担当することとしたこと、〈5〉そして、山根、三石両名のペアと鈴木が担当していた取引先を改めて二分して山根と三石がそれぞれ担当し、小松原が担当していた業務のうち北関東出張所に移管しなかった残りの約二割相当の分を佐藤東京営業所長が担当することとしたこと、〈6〉昭和六〇年五月、新規採用の伊藤が東京営業所に配属され、営業担当者が山根、三石、伊藤、小川の四名となったため、佐藤東京営業所長が取引先の担当から外れ、また、伊藤は、新人であったことから、当分の間、三石とペアで営業活動に従事することとしたこと、以上の事実が認められる。

右事実によれば、確かに、昭和五九年八月、東京営業所は営業担当者が二名減員となっているが、その際、ほぼ一名分の業務が北関東出張所に移管されたうえ、その残りとほかの一名分については、ペアを解消して一本立ちした三石、山根が分担すると共に、佐藤東京営業所長がつなぎとして暫定的に得意先を分担することによって対処したのである。そして、昭和六〇年五月には新人一名が配属されて営業担当者四名の体制となっているのであるから、昭和五八年に小川が配属されて一名増の五名、五九年に二名減の三名、六〇年に新規採用者一名が配属されて一名増の四名と、東京営業所の営業担当者の人数が毎年変動しているからといって、特に不自然な点はなく、これによって、本件再配転当時の東京営業所における増員の必要性が左右されることはないというべきである。

(3) 森田東京営業部長の発言について

(証拠略)により成立が認められる(証拠略)、被告の主張に沿う部分は、(証拠略)に照らして採用し難く、かえって、(証拠略)によれば、森田東京営業部長は、小川に対し、東京地区でも、ヒートパイプについては一〇社ほど特機部から引き継いで今日まできたけれども、充分な営業活動がされていないので、それらの得意先をもう一度洗い直し、また、新たな得意先を開拓するため、浜松でのキャリアを生かして頑張って貰いたい旨話したものであることが認められる。

(4) 以上、検討したように、被告が指摘する諸点によって本件再配転当時の東京営業所における増員の必要性が左右されることはなく、前記被告の主張は採用することができない。

(四) 次に、原告が東京営業所への配転の対象者として小川を人選したことの合理性について判断する。

(1) 原告が東京営業所への配転の対象者として小川を人選した経緯は、前記認定のとおりであって、狭山市所在の自宅から通勤できる事業所に配属する旨の本件配転の際の小川との約束を履行するためには、川越工場か、本社或いは東京営業所に配属する以外にないところ、川越工場からは係長職一名の増員要請が出されているだけであったのに対して、東京営業所では営業担当者一名の増員が要請されていたことから、小川を東京営業所に配属したというものである。

(2) そして、本件再配転当時、東京営業所には少なくとも営業担当者一名を増員する必要性があったことは、前記(二)に説示したとおりであるから、これとは別に、川越工場において増員要請の出されていた係長職一名以外に増員の必要性があったかについてみるに、前記一の3の(九)に認定したとおり、川越工場の焼結製造部製造課製造一係に所属していた青山が浜松出張所の小川の後任に充てられたことからすると、本件再配転当時、川越工場には係長職一名以外に欠員の補充を含む増員の余地が全くなかったとまではいい難い。しかしながら、職種の関係から小川がそのまま青山の後任として補充されるべき適格を有していたかどうかは明らかでないし、係長職一名以外の増員を積極的に必要としていたことを窺わせる事情は、本件全証拠によっても認めることはできないから、たとえ係長職一名以外に増員の余地があったとしても、それは、精々、増員の余地がなくはなかったという程度に留まると解するのが相当である(原告が、小川を川越工場に再配転することの可否という観点から、同工場の組織の改変とか配置すべき労働者の数の見直しなどの検討をしなかった事情については、後に2の(四)で触れる。)。

なお、この点について、被告は、川越工場からの増員要請は係長職一名のみであったとしても、そのことから直ちに、小川を配属すべき職場がないことになるものとはいえず、かえって、本件再配転当時、東京営業所の営業担当者は、焼結品の納期管理のため川越工場に赴くことが多くなり、本来の営業活動に充分な力を注ぐことができない実情にあったことに徴せば、川越工場に小川を配属すべき職場がなかったとは認め難い旨主張する。その趣旨は、要するに、東京営業所の営業担当者は、焼結品の納期管理のため川越工場に赴くことが多くなり、本来の営業活動に充分な力を注ぐことができない実情であったことに徴すると、むしろ逆に、川越工場にこそ増員の必要性があったというにあると解されるが、証人佐藤昌樹の証言によれば、営業担当者が川越工場に赴くのは、得意先に対する製品の納期管理の一環として同工場の生産管理課と生産する製品の調整について打ち合せをするためであって、同工場の業務に従事するためではないことが認められるから、営業担当者が、焼結品の納期管理のため川越工場に赴くことが多いからといって、川越工場に増員の必要性があったということはできず、被告の右主張は採用することができない。

(3) そうすると、自宅から通勤できる事業所に配属する旨の本件配転の際の小川との約束を履行するためには、川越工場か、本社或いは東京営業所に配属する以外にはないところ、川越工場については、精々、増員要請が出されていた係長職一名以外にも増員の余地がなくはなかったという程度に過ぎないのに対して、東京営業所については、前記(二)のとおり、少なくとも営業担当者一名を増員する必要性があったのであるから、小川を東京営業所に配属することには、業務の能率増進や労働力の適正配置などの企業の合理的運営に寄与する点が認められるのであって、原告が東京営業所に配属する従業員として小川を人選したことには合理性が認められるというべきである。

(五) 以上、認定・説示したとおり、本件再配転当時、東京営業所において少なくとも営業担当者一名を増員する必要性があり、しかも、小川を人選したことには合理性があるから、本件再配転は業務上の必要性が肯定されるというべきである。

2  本件再配転の不当労働行為該当性について

(一) 次に、本件再配転が、原告の不当労働行為意思に基づいて、つまり、小川が正当な労働組合活動をしたことのゆえに同人に対する不利益な取扱いとして行われたものと認められるかどうかが問題となる。

(二) そこで検討するに、前記二の2の(二)ないし(四)において検討した点に、右1で詳述したとおり、本件再配転には業務上の必要性が認められることを併せ勘案すると、本件再配転が不当労働行為意思に基づいて行われたものと認めることはできない。

(三) この点について、被告は、本件再配転は、小川の組合活動を嫌悪していた原告が、旧執行部派が従前と同様に組合に対する影響力を保っていることから、小川を川越工場へ復帰させれば、再び旧執行部派の中心として活発な組合活動を行うであろうことを恐れて、川越工場から小川を排除すべきものとして行ったものと認めるのが相当である旨主張するが、これまでの検討に照らして、採用し難いことは明らかである。

(四) ところで、使用者は、その経営判断に基づいて、企業組織の改変、内容及び配置すべき労働者の数などを決定することができることは、前記二の1の(一)に説示したとおりである。本件再配転に際し小川の後任となった青山が所属していた川越工場の焼結製造部製造課製造一係について、原告が後任を補充しない扱いをしたのも右権限に基づくものといい得る。このようなことからすると、原告としては、その気にさえなれば、本件配転から二年の期間が経過するまでの間に、川越工場の組織を改変するか又は配置すべき労働者の数を見直すなどして、小川を浜松出張所から川越工場の原職又はこれに相当するポストに再配転することも必ずしも不可能ではなかったと認められる。しかるに、原告は、本件再配転に際しては、青山の後任補充を含む増員の余地がなくはなかったのに、単に、川越工場からの増員要請が係長職一名だけであったという受け身の姿勢を示すのみで、小川の再配転の可否という観点から、積極的に、川越工場の組織の改変や配置すべき労働者の数の見直しなどの検討をした形跡は認められない。

この間の事情を直接に明らかにした証拠はないが、本件配転の経緯及びこれに対する小川の対応を総合的に勘案すると、その事情は次のようなものではなかったかと解される。すなわち、前記一の2の(一四)以下で認定したとおり、小川は、本件配転に際して、原告から、約一か月間にわたり一〇回以上の説得を受け、その過程では、単身赴任となった場合の別居手当及び月二回の帰省旅費の支給、浜松出張所における勤務期間の二年の限定、通勤可能な事業所への再配転の保障、配偶者の帰宅が遅くなった場合の二重保育費用の原告負担などの条件の提示を受けたにも拘らず、家庭の事情や組合活動に対する妨害行為などを理由に一貫して拒否の態度を続け、懲戒解雇を避けるために異議を留めて浜松出張所に赴任した三日後には、埼労委に対し、「本件配置転換は、合理化推進のために労使協調組合の育成・発展を願う会社がその基盤の軟弱さから、再度闘う労働組合が成立することを恐れ、労使協調路線の批判の中心人物の一人であって、職場での活動を通じて人望を集め、組合役選で毎年高い得票を得ている申立人を職場から排除し、かつ組合からも排除して、反労使協調組合の成立を阻止し、あわよくばそれに壊滅的打撃を与えることを企図したのものである。」と主張して不当労働行為の救済申立を行い、川越工場の原職への復帰を求めて争っていたもので、本件再配転は、右救済申立についての審理の最中に行われたのである。しかも、小川は、本件配転に対する原告の説得の過程で、本件配転は組合活動を妨害するもので撤回を求めているなどと記載したビラまで配布していたのである。したがって、このような状況の下で小川を川越工場に再配転した場合には、本件配転は不当労働行為であるとして原職への復帰を要求している小川の主張を事実上認めたのと同じ結果となって、原告に対する非難、攻撃に格好の材料を与えるだけでなく、前記のような条件の提示が逆に不当労働行為意思を隠蔽するためのものと受け取られて、異動を含む今後の人事一般に悪影響を及ぼす危険のあることが考えられる。これは、本件配転の経緯及びこれに対する小川の対応から容易に推認されるところであって、原告が小川の再配転の可否という観点に立って川越工場の組織の改変や配置すべき労働者の数の見直しをした形跡がないことの背景には、かかる事態の発生を防止しようとする配慮があったのではないかと解されるのである。

もっとも、本件配転が小川の主張するとおり不当労働行為を構成するものとすれば、右のような原告の態度は、文字どおり、不当労働行為意思を隠蔽し、これを一層強固ならしめるものとの評価を免れ得ないが、前記二に認定・説示したとおり、本件配転がなんら不当労働行為とは認められないことからすると、原告が小川の再配転の可否という観点に立って川越工場の組織の改変や配置すべき労働者の数の見直しをしなかったからといって、特に非難されるべき筋合いはないことになる。本件配転が不当労働行為であるとする小川の一方的な主張や予想される非難等に対処し、今後の人事一般に対する悪影響の防止を図ることは、小川に認められた組合活動とは関係がなく、この点に配慮した原告の意図をもって不当労働行為意思とみる余地はないからである。

(五) 以上の検討によれば、いずれにせよ、本件再配転が労働組合法七条一号所定の不当労働行為に該当するとは認め難いというべきである。

四  補助参加人の主張について

1  本件配転及び本件再配転の不当労働行為性について

(一) 補助参加人は、本件配転及び本件再配転は、いずれも組合員の九〇パーセント以上が在籍し、小川らが主導権をもっていた旧執行部派が依然として一定の影響力を有している川越工場から、小川を排除することを目的とした不当労働行為である旨主張するが、前記二、三の検討に照らして、採用することができない。

(二) 補助参加人は、原告が旧執行部及びその後身である旧執行部派に対して激しい敵意と露骨な嫌悪の情を抱いていたことは明白であるとして、縷々主張するが、前記二の2の(二)ないし(四)に説示したとおり、原告が、仮に主導権を有していた当時の旧執行部を嫌悪していたことが推認されるとしても、そのことから、当然に、主導権を失った後の旧執行部派或いはこれに属する役員経験者の一人である小川に対する嫌悪の情までもが推認されるわけではないから、右主張は採用できない。

なお、補助参加人は、原告が、昭和五三年八月の組合役員選挙の際、労使協調的な執行部を作り上げるため、〈1〉旧執行部を非難、中傷する「正常な労働組合について我々の基本的な考え方」と題する文書を配付するとか、〈2〉職制を通じて、旧執行部を支持する組合員に対し、定期昇給や一時金査定への悪影響をほのめかすなどの露骨な選挙干渉をした旨主張するが、(証拠略)、これに沿う部分は、(証拠略)に照らして採用し難く、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

(三) 補助参加人は、小川は、まさしく旧執行部派の中心的存在として、活発な組合活動を展開してきたものであるから、本件配転及び本件再配転が、小川を組合と川越の職場から切り離すことによって、旧執行部派とその支持者たちの士気をくじくことを狙ったものであることは明白である旨主張するが、前記二の2の(四)に説示したとおり、小川は、旧執行部派の主要メンバーの一員であっても、その中心的存在とまで認めるのは困難であるから、右主張は採用することができない。

2  本件配転及び本件再配転の必要性、合理性に関する原告の主張に対する反論について

(一) 本件配転について

(1) 補助参加人は、原告がヒートパイプの拡販に力を入れていたとは認め難い旨の被告の主張は正当であるとして縷々主張するが、右被告の主張が採用できないことは、前記二の1の(四)の(1)に説示したとおりである。

(2) 補助参加人は、浜松出張所の増員に関する稟議書作成の経緯に照らせば、現場の長である小口所長が、補充する人材はできれば春日井工場の現役が望ましく場合によっては新聞広告による公募でも良いと考えていたことは紛れもない事実である旨主張する。

しかしながら、前記二の1の(四)の(2)に説示したとおり、小口所長が、補充する人材はできれば春日井工場の現役が望ましく、場合によっては新聞広告による公募でも良いと考えていたからといって、直ちに、ヒートパイプに関する知識・経験を人選の重点とした原告の経営判断の合理性が左右されることにはならない。

(二) 本件再配転について

(1) 東京営業所における増員の必要性の不存在について

〈1〉 補助参加人は、本件再配転当時、東京営業所に増員の必要性はなかったとして、縷々主張するが、本件再配転当時、東京営業所には少なくとも営業担当者一名を増員する必要性があったというべきことは、前記三の1の(二)の(4)に説示したとおりである。

〈2〉 補助参加人は、東京営業所における営業担当者の人数が変動していることについて、昭和五九年八月に二名減員して三名体制にした際、業務分担を変更したり、ペアで営業活動を行っていたものを単独で行わせるなどして対処しており、それで支障がないのならば、昭和五八年においても、そのようにすれば足りたのであって、あえて増員する必要はなかったはずである旨主張する。

しかしながら、前記三の1の(三)の(2)に認定した事実によれば、昭和五八年八月の時点では、同月の異動で初めて営業部門に配属された山根に単独で営業活動を行わせることが困難であったと認められることに加えて、(証拠・人証略)によれば、北関東出張所の売上実績は、昭和五五年当時は月商平均約一四〇〇万円であったものが、昭和五八年当時は月商約一一〇〇万円となり、更に昭和五九年に入ると月商一〇〇〇万円台となる月もあるなど、売上の減少がより深刻になってきたことが認められ、この事実によれば、昭和五九年の時点で北関東出張所への業務移管が行われたことには、充分首肯し得るものがあるというべきであるから、昭和五八年においても、業務分担の変更などで対処すれば足りたとは認め難く、右主張は採用できない。

〈3〉 補助参加人は、森田東京営業部長の小川に対する発言が、たとえ、前記認定のとおり、東京地区でもヒートパイプについては、一〇社ほど特機部から引き継いで今日まできたけれども、充分な営業活動がされていないので、それらの得意先をもう一度洗い直し、また、新たな得意先を開拓するため、浜松でのキャリアを生かして頑張って貰いたい、というものであったとしても、それは「すぐに売上に寄与するような仕事でないので気長な気持で業務に当たって欲しい。」ということを言葉を換えていったに等しい旨主張する。

しかしながら、前記三の1の(三)の(3)に認定したとおり、得意先の洗い直しや新たな得意先の開拓は、ヒートパイプの拡販の基礎固めとして必ず行わなければならない業務であることに加えて、「頑張って貰いたい」という激励の言葉を述べていることからすれば、前記発言が「すぐに売上に寄与するような仕事でないので気長な気持で業務に当たって欲しい。」ということを言葉に換えていったに等しいとは認め難く、右主張は採用できない。

(2) 川越工場における増員の必要性の有無について

補助参加人は、川越工場には小川を戻す職場がなかったわけではない旨主張するが、川越工場に、たとえ増員要請が出されていた係長職一名以外に増員の余地があったとしても、それは、精々、増員の余地がなくはなかったという程度に留まり、そのことによって、東京営業所に配属する従業員として小川を人選したことの合理性が左右されるわけでないことは、前記三の1の(四)に認定・説示したとおりである。また、経営判断に基づいて企業組織の改変、内容及び配置すべき労働者の数などを決定することのできる原告が、小川を川越工場に再配転することの可否という観点から、同工場の組織を改変するとか又は配置すべき労働者の数を見直すなどのことをしなかったからといって、不当労働行為意思を基礎づけることにならないことは、前記三の2の(四)に説示したとおりである。

五  結論

以上に認定・説示したとおり、本件配転及び本件再配転は、いずれも労働組合法七条一号所定の不当労働行為に該当するとはいえないから、これと結論を異にする被告の認定・判断は違法であって、本件命令は取消を免れない。

(裁判長裁判官 太田豊 裁判官 田村眞 裁判官水上敏は、転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官 太田豊)

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